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山陰百姓一揆留置の地

山陰百姓一揆留置の地の地図 ココ

山陰百姓一揆留置の地:(宮崎県児湯郡都農町又猪野)

現在股猪野地区の小高いところにある集会場(公民館)の庭には、「留置地」の「供養塔」が建っています。これはあの逃散事件から三百十年を迎えて、東郷町・都農町の教育委員会が合同で建てたものです。 この碑には「山陰・坪谷両村の多くの百姓たちが、何故一斉に村を捨てることになったのか。高鍋藩としては、全員の収容をし、飯米を給付したが、拘束された不自由な生活のために老人や子供などに、79名もの死亡者を出すほどの惨状であったこと。さらに延岡、高鍋両藩の帰村説得に応ぜず、遂に幕府評定所の裁きによって首謀者は死罪・島流しにあい、多くの村人は放免となり、元禄四年(1692)7月に帰村したこと」等が説明されている。その結びには、「自分たちの生きる権利の獲得のためにこの股猪野原で強く生きた逃散百姓達の霊を供養し、この碑を建立した」と述べてある。

宮崎の街道(宮崎県教職員互助会)

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10号線との分かれ道

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坂道を降りた所の案内板

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旧豊後街道(右折)

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案内板

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森の中の道

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慰霊碑

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三百周年記念碑

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案内柱

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心見に残る豊後街道

消防倉庫から左折して下り坂を下り、心見橋(長さ43m、幅5m)までの区間、及び橋の手前から左折して 下流に向かい、川と接するところに橋がありました。そこまでが旧豊後街道でした。行って見ましたが今は畑地で川端まで行けませんでした。この写真は心見橋の上から下流を撮ったものです。この森の向こうあたりが橋があった場所だったのでしょう。「日向地史」によると明治11年(1878)ごろには欄干のついた板橋がかかっていました。長さが16間(28.8m)幅が1間3尺(約2.8m)のものでかなり低い場所に架橋されていたようです。昔はこのような場所でした。

編集後記

この小丘に1,400名ものお百姓が留置されていたのでしょうか。着の身着のまま、ぼろ着をまとい、お腹を空かせて泣き叫ぶ幼子達、打ちひしがれ苦悶する女達、顔色彩を無くし、骨と皮に成り果てた体を寄せ合い密談する男達、牢屋の中ではないとはいえ、柵に囲まれた場所だったでしょう。その心苦は察するに余りあります。 今の時代に生まれた私たちは、それだけで幸せと思わなければならないのでしょう。

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行きかた 日向から国道10号線を南下、東都農駅の標示を過ぎてすぐ右側に東都農小学校が見えます。そこを過ぎて200m程で左側に地区の消防倉庫があり、そこに山陰百姓一揆留置の地の看板が出ていますので。そこを左折。下り坂を50mほど降りると、三叉路がありますの右折して、10号線の下を通って反対側に出ます。鬱蒼と茂る雑木を杉林、やがて道は平坦な牧草地に出ます。次の三叉路を左折。200mほど行くと右側の小丘の上に見えます。10号線から2km程です。
周辺見所

botan 都農神社

botan 古代の駅「去飛」

botan 本陣赤木家住宅

関連サイト

botan 山陰百姓一揆とは

日向市東郷町山陰地区、坪谷地区に起きた大規模な百姓逃散事件です。

botan 成願寺

百姓一揆犠牲者の慰霊碑のあるお寺です。百姓一揆の首謀者達はこの寺で謀議をはかったといいます。

botan 西城公園

伊藤氏の日向三城の一つ、山陰西城のあった場所ですが、山陰百姓逃散の碑が有ります。