臼杵(うすき)城址

杵城址 :(大分県臼杵市臼杵丹生島)

臼杵湾の奥深く、臼杵川がそそぐ辺り臼杵城は聳えている。四面急崖の丹生島に絡みつくように、石垣が頂上まで荒々しくも美しいカーブを描いている。築城当時ここは臼杵湾に浮かぶ小島であった。今は埋め立てで街中となっているが、往時の面影も残している。街中に忽然と浮かぶ岩山は、波打ち寄せる磯場であったことだろう。戦国時代の豊後の覇王「大友宗麟」、島全体を要塞化するとは、発想のスケールに驚かされる。

臼杵城
臼杵城全景
正面入り口
正面入り口、右側には平櫓が建っていた。
入口
入口「古橋」、左右は水堀となっている。橋の左側は島の岩盤そのままを利用している。   
岩山の穴
岩山の穴、岩盤が目の前に見える。
閉ざされた穴
閉ざされた穴、防空壕や兵を潜ませていた穴とかいろんな説があるが、さだかではない。
鐙坂
岩場を削った切通し「鐙坂」、まとわりつくよう上方に伸びてゆく。
畳櫓
畳櫓(現存櫓)
大門櫓
大門櫓 稲葉氏入城直後に建造された門。宝暦13年(1768)に火災で焼失したが明和五年(1768)に再建された。しかし明治新政府の廃城決定により破壊された。現在の門は古写真等をもとに復元された。
佛狼機砲(ふらんきほう)
佛狼機砲(ふらんきほう)ポルトガルより、領主「大友宗麟」に贈られた日本初の大砲で、「国崩」とも呼ばれ、城の守備砲であった。
砲弾記念碑
砲弾記念碑、日清戦争での戦利品。
卯寅(うとの)稲荷神社
卯寅(うとの)稲荷神社
卯寅口門脇櫓
卯寅口門脇櫓(うとのくちもんわきぐら)寛永7年(1854)建立、延宝4年(1676)ごろの本丸御殿指図には「御鉄砲薬櫓」であった。

臼杵城と丹生島城の戦い(引用)

島津家久は隠居している大友宗麟の丹生島城(臼杵城)を包囲した丹生島城の戦い(臼杵城攻防戦)で、大友勢の武宮親実(武宮武蔵守親実)が「国崩し」(石火矢)と呼ばれた、ポルトガル製の大砲「フランキ砲」を使って応戦した。
臼杵城

臼杵城は弘治(こうじ)2年(1556)、大友義鎮(よししげ)(宗麟)によって建てられた城です。臼杵城が築かれた丹生島(にゅうじま)は、文字通り、元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの堅いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。

大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が変わり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。 以後、明治維新に至るまで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。 その後、明治新政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓(うとのくちもんわきぐら)、畳櫓以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。現在は臼杵の歴史のシンボルとして、皆さんに親しまれています。

現場案内板より

編集後記

岩山をくり抜いたような城、それが確かな印象であった。幼少のころ砂場に山を造って道筋を作り、球を転がして遊んだことを覚えているが、それと似た造ることの喜びと夢さえ感じるのは、私の勝手な想像だろうか。海の中に浮かぶ四面懸崖の要塞、城としては決して大きなものではないが、攻める側にとって難攻な城であったろう。

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