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浦城水軍城

浦城水軍城地図

浦城水軍城は、中世の水軍の城です。フェリー乗り場の上方には、六地蔵があり、これもその関係の史跡である。天文年間(1532〜1555)の築城と言われる。浦城湾は、周囲8km、最深部10m、の海湾と言うよりはむしろ湖水と言う感じのするところで、浦尻城は湾沿いの標高40mの山頂にありました。浦尻湾の奥、通称「おや鼻」とよばれる小さな半島全体を城郭にしたものです。

撮影中ですが、冬を待ち雑草が枯れたら一度いってみようと思います。シダが生い茂り行けないとの話も聞きました。


おや鼻(対岸より)

おや鼻(対岸より)


浦尻湾はオウヤと言われ、昔この辺一帯をオウヤ千軒(せんげん)と言って繁盛する集落が有ったらしいのです。東の入り江を船隠しと言って岩場に直径数十cmの穴が二ヶ所開いている。ここに丸太を入れ、仮の桟橋を造って、何時でも船出できるようになっていたということで、今でもその跡が残っています。また現在のフェリー乗り場周辺をスカイ千軒と呼び、ここも繁盛していたとのことです。玉屋千軒、須賀千軒、堂山合わせて三千軒、というと約一万人、これは当時としては大変な数でその繁盛振りが偲ばれます。しかし、室町時代から約160年にわたって栄えたこの城も、大友宗麟の日向侵攻の際焼き討ちに合い、一夜にして落城しました。その際浦尻城最後の城主、松田義清が城を落ち延びる際、財宝をあるところに隠したという言い伝えがある。「朝日輝く、夕日輝く」とか、浦尻城研究家故島田氏に拠れば「トロトロダンノ64ダン」とか、その隠し場所のヒントらしきものが残されています。 又この城跡にはいくつも地名があって、堂山と呼ぶ地名は、「宝光寺」というお寺のあったところで、宝が光るとは何か財宝に繋がるかも?。

中世時代、最も恐れられていたのは、日向灘沿岸部に本拠を置く海賊であった。今で言う賊では無しに、いうならば全てが賊の時代である。中世の動乱の時期は弱肉強食、国家をバックにしていない商業集団は当然に自己集団の武力を背景に商業活動をせねばならなかった。彼らは大海を越え、朝鮮半島、中国などに交易の場を広げ、ときには財宝から婦女子まで略奪、人身売買に及び倭寇として最も恐れられた存在であった。日向灘には、倭寇の三大拠点として、本城湊、野島、浦尻があげられる。
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