鶴富屋敷

鶴富屋敷(那須家住宅) :(椎葉村大字下福良字上椎葉)

椎葉の民家は「並列型民家」といわれ、横に長く造られている。これは急傾斜地を、うまく利用するために考えられた。 この家屋は約300年前に建立され、太い木材を用い、各部屋とも囲炉を設け、規模が極めて大きく民家として特有の美しさを持っていると言われている。 昭和31年6月28日に国の重要文化財に指定された。

間取りは部屋を一列に横に並べた形式で、向かって左より、こざ、でい、つぼね、うちね、の4室が並び、その右に、どじ(土間)がある。各室は前面を「したはら」、内部を「おはら」といい、背面には全て戸棚を造りつけにして、開口部が全くないのが特徴的である。 屋根は寄棟で藁葺であったが、昭和38年に銅板に葺き替えられた。

表門
表門(下道路より)
屋敷全景
屋敷全景
縁先
縁先
ござ
ござ
でい
でい
つぼね
つぼね
うちね
うちね
どじ
どじ

那須大八郎と鶴富姫の悲恋の舞台

屋敷間取り
この家の間取りは左から「ござ」・「でい」・「つぼね」・「うちね」・「どじ」を設けている。
「ござ」は神仏を祭る神聖な場所で、昔女子は不浄なものと考えられ、立ち入りできなかった。
「でい」は、一番広い部屋を客間として用いられ、冠婚葬祭などの行事も行った。
「つぼね」は、夫婦部屋で、お産の部屋ともなった。
「うちね」は茶の間。
「どじ」は土間のことで、雑穀を唐臼と大小の石造りのかまどがある。
「でい」に(なげし)とあるが、これより上座を「おはら」下座を「したはら」と呼び元は各部屋に配置されていた。これは身分の上下を区別するために設けられ、庭に筵を敷いてもの言った時代の名残である。
各部屋とも畳を敷いているが、本来は板の間であり、各部屋に囲炉裏が設けられている。背面は全て戸棚を造りつけほとんど欅の一枚板で長年丹念に磨き上げられ、美しい小豆色を醸し出しており、家の歴史をしのばせる。
この家の建立は明確な資料は無いが、建築技術などから約300年前と思われる。民家としてh太い材料を用い、しかも規模が大きくて雄大で、特有の美しさを表しているといわれ、昭和31年国の重要文化財に指定された。

■平家伝説

寿永4年(1185)壇ノ浦の合戦に敗れた平家一門は、追っ手を逃れ山深い椎葉の地に落ち延びた。日々の暮らしもままならぬ残党らは、この地でこの地で村人たちの助けを得ながら穏やかな暮らしを送るようになる。しかしそこへ鎌倉より源頼朝の命を受けた那須大八郎が平家残党のの討伐にやってくる。大八郎は落人らの貧しい暮らしぶりを目の辺りに追討を断念。鎌倉には残党討伐を果たしたと報告し、自らもこのちで暮らすようになる。大八郎は平家ゆかりの厳島神社を勧請し、村人となった落人たちに農耕の手ほどきをするなどして双方は互いに心を支えていった。

やがて平家方の姫「鶴富姫」と恋仲となり結婚するが、都へ戻れとの命が下る。身重の姫を置き村を去る大八郎は「男子が生まれたら私の故郷に、女子だったらこの地で育てるがよい」といい残し、一本の刀を託す。女子を出産した鶴富姫は後にその娘に婿をとり、「那須」の姓を名乗らせたという。

編集後記

分け入っても分け入っても青い山。誰の句だったろうか?今は国道も整備され実に快適にドライブすることができるが、その昔、ここに逃亡した平家も、それを追討した源氏も、道なき道を、よくもまあこんな山中まで行くことが出来たものだと感心する。

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