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稚児ヶ池

稚児ヶ池の地図

稚児ヶ池:(宮崎県西都市三宅)

道端とは思えないほど、美しい湖面が広がっている。対岸の森影が水面に映えて美しい。足元にはスイレンの群生が見られ、溜池というより湖といった形容がふさわしい。奥へ細長い池であるが、この土手の築造には、大変な苦労があったらしい。水源地の「児湯の池」からの流れ込む水量が多いのだろう。

ある資料では池の中に小島があって、長千代丸の慰霊碑があるようなことを聞いたのだが、長千代丸の慰霊碑は土手の東側に鎮座している。(わかんねえ〜)。

ここは稚児ヶ池公園となっているから、今回は行けなかったが、池の奥のほうは公園になっているのだろう。

浅学菲才

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美しい湖面

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水面を覆うスイレンの群生

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築造に苦労した堰堤

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池の奥の方面

竜神(水神)と人柱にかかわる悲しい伝承

この池には竜神(水神)と人柱にかかわる悲しい伝承がある。 室町時代の話である。

この地域は水利が悪く雨が降るたびに田畑が泥沼化し、村人は困っていた。そこで都於郡城主伊藤氏の配下である壱岐加賀守義道(穂北城主)は、当時「鶴の池」と呼ばれていた池を大きな溜池とし、長さ百間余の堤を築かせた。だが豪雨の度に堤は崩壊した。役人や村人たちは、石貫大明神(石貫神社)に占いをたてた。

すると「昔、鶴の池には、黒白の夫婦の大蛇が住んでいた。ところが悪い事ばかりするので、神様がその大蛇を池の沼地に埋めてしまわれた。そのたたりであるので、大蛇の霊を鎮めるために、人柱を立てなければならない」というお告げがあった。

このお告げの事を、酒元の法元猶之助(ほうがゆうのすけ)の三男である長千代丸が聞いた。法元長千代丸は「明朝早くに、浅黄色(あさぎいろ)の着物に、袴をつけた者が通ります。その者を人柱にすると良いでしょう」と村役人に提言した。役人と村人が翌朝待っていると、その者は長千代丸であった。父の猶之助はこのことを知り、ひどく悲しんだが、わが子の志を諾わざるをえなかった。1428年2月27日、人柱になった長千代丸は辞世句を残して切腹した。

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長千代丸を祀る祠

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正面には時世の歌が掲げてある

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数基の慰霊碑、年代ごとにあるみたい。

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祠内部

梅の花散るを惜しむな鶯の経は実となる南無や法華経

長千代丸の遺骸は、池の底八尺のところに埋められた。村人は長千代丸の死を無駄にすまいと、一生懸命に池堤の事業に携わった。以後、この池の堤は崩壊することは無かったという。村人たちは敬意を込めて、鶴の池を稚児殿の池と呼ぶようになったのである。 池の近くに長千代丸供養の祠と石碑が建っている。

西都・西米良紀行(田浦チサ子著)

編集後記

悲しい伝説に満ちた溜池でした。長千代丸の卓抜たる義勇は、単に伝承かと思っていましたが、これだけの慰霊碑があり、今も大切に守られているということは、あるいは本当のことだったのかも知れませんね。その深遠な緑色の湖面は、それを裏付けるように神秘的でした。

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行きかた 西都市の都萬神社から国道219号線を通り抜け、西都原古墳群に向かうと、右手道路脇に大きな溜池がある。溜池の堤を道路が走っているという方が正しい。池の手前の左側バス停の横に長千代丸慰霊碑がある。

周辺見所

botan都萬神社

botan石貫階段

botan石貫神社

botan児湯の池

botan八尋殿跡

botan逢初川

botan無戸室跡

botan酒本の観音堂

botan西都原古墳