田島隠れ念仏洞

田島隠れ念仏洞 :(宮崎県都城市山之口町富吉 田島かくれ念仏洞)

一般民家の庭先である。こんもりとした高さ2,3mぐらいの小さな丘がある。庭園の小山といった感じである(民家が後で建ったのだろうか?)。その横を降りてゆくと右足元に洞穴がのぞいている。中は暗く入口は雑木に覆われていて中は見えないが、人々がその昔、ここで隠れて、信仰によりどころを求めていたと思うと、何かやるせなさを感じる。

案内柱
案内柱
石碑
石碑
入口
ここを下りてゆく
念仏洞
念仏洞1
供養廟
供養廟
工業港入り口
念仏洞2
鉄格子
念仏洞鉄格子
石碑の内容
石碑の内容
■田島かくれ念仏洞(都城市山之口町冨吉4979番地)
 ・洞入口=高さ110p・幅70p  ・洞内 =高さ126p・直径220p

都城盆地内には、たくさんのかくれ念仏洞が現存しています。この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者達の「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。

薩摩藩の一向宗に対する弾圧は慶長二年(1597年)2月22日、17代藩主島津義弘が二度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗態になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。また、明暦元年(1655)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永7年(1778)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。

役人の拷問は悪辣を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。責め苦に耐え切れず白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰は免れず、切腹の重罰、軽くても家禄没収の上、百姓として追放処分を受けました。

本町には荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や上森、木上、吹上、田原など4か所のかくれ念仏洞がありましたが、原型をとどめているのはこの田島だけです。

(看板より)

編集後記

昔はここは原野であったのであろう。そうでなければ、あまりにも人家に近すぎる。今の世に生まれて良かったね。島原の乱をはじめ、当時の生活は宗教に頼らねばならぬほど苦しかったのだ。幸せは来世にしか感じられなかったのであろう。

Copyright©2015 nAn All rights reserved.
TOPへ