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高鍋城

高鍋城の地図 ココ

高鍋城(舞鶴公園):(宮崎県児湯郡高鍋町)

高鍋城は当初は財部城と呼ばれた。鶴が羽を広げたような形なので通称舞鶴城と呼ばれていた。現在、門館等は失われているが城堀がほぼ昔のまま残っている。現在高鍋城の一部は舞鶴公園となり、城堀公園と桜の名所で町民の憩いの場となっている。

平安時代に土持氏が築城したのが始まりとされる。その後伊東氏にも敗れ、伊東氏の持ち城となったが、天正5年(1577年)島津氏との戦いに敗れ、城は島津氏の持ち城となった。 天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐後、秀吉の臣下となり、筑前国秋月城主秋月種長が櫛間城に転封となり、財部城は支城となった。

三層の天主台がそびえていたという高鍋城は、本丸、二の丸、三の丸よりなっていた。本丸は現在芝生になっているところから展望所までの広場である。ここに政庁、奥御殿があった。芝生の中に点在する礎石はその名残である。三の丸の外側(東面)には掘もつくられていた。県立高鍋農業高校の東側に見られる水路がそれで、原型こそとどめないが、城堀の遺構として貴重である。

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舞鶴公園正面碑

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正面入り口水路、道路は堀だった。

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岩坂門跡・二の丸入り口

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寒山拾得石像

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二の丸への上り口と石垣

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本丸への石段

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見晴舎より町を望む

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丁丑戦亡記念碑

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本丸跡の礎石

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長峰門跡

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本丸政庁跡

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三の丸跡の高鍋農高グランド

高鍋城

高鍋城

拡大 財部城(高鍋城)も秋月氏が移封されたとき、山城の状態であったことはいうまでもない。高鍋城には城門と城内門があった。城の出入り口である城門は、東の正面に大手門(大手門橋を渡った内側)堀の北側に島田門、南側に蓑崎門の三つがあった。いずれも二層造りの櫓門である。この三つの門の内側が城内である。 城内門の主なものとして、岩坂門・長峰門があった。岩坂門跡に入ると二の丸跡である。二の丸跡を過ぎ、桜並木に沿う石段を登りつめたところに長峰門跡がある。これより物見舎までが本丸跡である。藩政時代の本丸政庁のあったところで、大広間、御書院の間、家老・奉行・大目付・用人などの詰め所が有った。 詰めの丸には三層の櫓があった。「慶長14年(1609)詰めの丸に三層の櫓を建てる」(本藩実録)とある。 現在公園になっている北側に当時のままの石垣がある。その上方の地に、三層の櫓が建っていたとされ、現在は梅林となっている。 そして三層の櫓の反対側、北斜面の上の地に太鼓櫓があったとされている。太鼓櫓には大太鼓があり、時刻を知らせていたという。

引用:高鍋・木城・串間紀行(田浦チサ子著)・宮崎の文化遺産

編集後記

今回は初めていったので、何がどこにあるか。見逃している点も多々あり、公開に耐えませんが、また取材してきます。夏は駄目ですね。小丘といっても結構高いのですよ。薮蚊がすごくて、まだ一番上まで行ってませんし、城掘の写真も有りません。

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行きかた 国道10号線を南下し、小丸川を渡り高鍋町に入る。一つ目の大きな信号を右折(左折すれば高鍋駅)。しばらく行って、一つ目の大きな交差点を左折(右折すれば町役場)。右側に細い小川が流れている。少し行くと右手に大きなクスノキがある。そして右側の舞鶴公園駐車場に入る。
周辺見所

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関連サイト

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■二の丸入り口のクスノキですが、このような大木はいたるところに有ります。

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■ここにも有る西南戦争の慰霊記念碑