杉安井堰

杉安井堰の地図

照葉(てるは)大吊橋 :(宮崎県東諸県郡綾町南俣大口5691−1)

一つ瀬川が西都原古墳の北側を西上し、穂北の山並みに差し掛かる辺り、美しい景勝地で知られる杉安峡がある。青々とした川面に四季折々両岸の色彩が映え、かっては屋形船が浮かび、美しい景観を愛でながら、のどかな一時を謳歌したこともあった。この満々とした水を支え、湛えているのが杉安井堰である。

時は過去にさかのぼる。江戸時代、巾140mもあるこの大河に井堰を設け、水利の乏しいこの地を、豊かな田園地帯に変えようとする一人の男がいた。農民達のあまりの窮状を見かねての、苦渋の決断であったのだろう。土木技術の未熟な当時、難工事を極めたが、挫折を繰り返しながらも、とうとう完成させるに至った。その男の名は児玉久右衛門。今も井堰横から静かに見守っている。本来なら領主がすべき工事を、個人で、資金調達も自分でやったのだから絶賛に値する。

案内板
国道219号線沿いの案内板。杉安井堰とは書いてないので御注意
改築の碑
資料館入り口にある改築の碑
歴史資料館
土地改良歴史資料館
記念碑
記念碑
杉安井堰
杉安井堰(特大写真)
杉安井堰上部
杉安井堰上部(特大写真)
取水口付近
井堰の取水口付近
水門
用水路に流れる水門。土手の向こうが川。
用水路
西都市街に通じる用水路。
児玉久右衛門
児玉久右衛門の胸像
功労碑
児玉久右衛門功労碑
水神様
水神様

行きかた 西都市街地から国道219号線を米良に向かい、穂北を過ぎてすぐ、一つ瀬川に架かる杉安橋手前の国道上に、「土地改良歴史資料館」の案内板があるので、そこを右折して、資料館の方に入ってゆく。道路上に標示してあるが、小さいので、ボヤーとしていたら(私もそうでした)気がつかないので注意。杉安井堰の案内板は無い。

周辺見所

  杉安峡

  速開津比売神社

  都萬神社

  杉安ダム(編集中)

関連サイト

botan 岩熊井堰

この井堰より10年程遅く、同じ延岡藩本領の五ヶ瀬川の岩熊井堰も着工されました。藩をあげての工事でしたが、足を引っ張る連中は何時の世もいるもので、むごい悲話を秘めています。

築堤技術の変遷

資料館前には、「かごぜき」→「はこぜき」→「コンクリートぜき」と、時代と共に進歩変遷してゆく築堤技術が公開されている。

拡大

 

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児玉久右衛門と杉安井堰

当時この地域は、延岡藩の飛び地を経て幕府領になり、日田代官所の管轄下に入りました。水利に乏しくて田園は少なく、ほとんどが畑地であったが、年貢は畑地といえど、田地と同じで米納であった。しかも幕府は従来の検見制を改めて定納制にしたために、農民の窮状は目に余るものがあり、田畑を捨てて逃亡する百姓まで出る始末であった。

児玉久右衛門は、西都市三宅の庄屋の二男として生まれたが、調殿村に分家していた。生来義侠心の強い人物で、民衆の困苦を見過ごしに出来なかったらしい。そこで久右衛門は杉安に井堰を造ることを決断した。

仕事の手初めは測量からであった。計測する機器の無いころなので、「山嶺に登りて標木を眺め、ツタカズラを這い上がって水準を定め、或いは寒中水に投じて河流の深浅暖急を計る」等苦労が続き、村人から「久右衛門狂せり」と嘲笑される始末であった。資金調達も悩みの種であったが、それについて面白いエピソードが残っている。

宮崎で素人相撲大会が行われたとき、上野町の富豪日高六右衛門の関心を引くようにわざと派手な装いで乗り込んだ。策略とは知らない六右衛門は、久右衛門が身につけている綿の陣羽織の譲渡を申し出てきたので、渡りに舟と資金援助を交換条件に譲ったという。

井堰の絵

六右衛門の援助を得て、工事は進められていった。ところが、水路の用地のうち所有者が頑として応じない土地のために、相当の換地を要し、多くの出費が必要になった。更に不慮の水災害を招くのではないかと危惧して、陰に工事を妨げるものもいた。洪水にもあった。その悪評を聞いて六右衛門からの費用も絶えてしまった。久右衛門は途方にくれた。

ところが南方村(上穂北村大字南方)の黒木弥能右衛門が久右衛門の窮状を見て、その志を励まし、出資を一手に引き受けてくれる事になった。黒木弥能右衛門は義気に富んだ人物であったという。しかも工事費支払いの任まで引き受けてくれたので、久右衛門は工事に専従することが出来た。とは言え、依然として工事を妨害する者もいた。幾度も工事の失敗をした。川幅140mもある一ッ瀬川に堰を造るには当時の技術では難工事で、久右衛門の苦労は言い尽くせないほどであった。

ようやく第一期の工事が完工したのは、享保7年(1722)であった。完成したときは、大きな歓声があがり、工事に携わった者たちと農民は、手を取り合って喜んだという。

第二期の完工は寛延の頃(1748〜1750)であった。以来今日まで改修も加えられて、一ッ瀬川右岸に広がる870ヘクタールの水田を潤している。

そして児玉久右衛門は、農民から「井戸口さま」と感謝を込めて呼ばれるようになった。また延岡藩主は、久右衛門の功を賞して、手当て米若干を与え、乗馬帯刀を許した。村民も用水路の一切の権限を久右衛門に委託した。以後毎年、取入れが終わると、久右衛門宅に36俵の米を送る(永代寄与)ことにしたそうです。その習慣は270年を経た現在も続いているという。(現在は米36俵の代わりに奉賛金である)

宮崎の文化遺産より

供養碑 供養碑

工事で犠牲になった人達の慰霊碑でしょうか。南無阿弥陀仏の文字が……・

水準点 水準点

水準測量に用いる際に標高の基準となる点のことである。

水準点とは ウィキペディア

編集後記

ここは資料館まで揃えています。地元の人たちがいかにこの井堰を大事に思っているかがわかります。ここから大きな用水路が流れ、西都市街地を潤しているのですね。逢初の池の取材中、横を水量の豊かな小川が流れていましたが、ここから流れていたのでしょうね。しかし、個人でこれだけのことをやるとは感嘆の至りでした。資料館が休館日だったのが残念ですが、米良地方の取材の時に寄ったら掲載しますね。

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