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曽木

曽木地図

曽木川が大きく曲がっているところで、左岸が曽木、右岸に柳瀬の家並みが旧街道を偲ばせる形態を残しています。城下町の延岡から神話の高千穂に通じる街道筋に点在します。曽木から約三キロ下流の吐合で五ケ瀬川と合流しています。北方村には北部に江戸時代の明暦三年(1657)に発見され開発された槇峰、日平鉱山があって、最盛期の頃、毎日鉱山からの荷馬車が走り、延岡と槇峰の中間の曽木「柳瀬」は「宿場」となっていて、賑やかでした。特に曽木川の右岸にある柳瀬は、昔は商売の町として繁盛し、その一部は今も江戸、明治期の面影を残す五ケ瀬川随一の街道でした。下曽木には徳川時代は大庄屋があり、明治4年には戸長(村長)役場が設置され、小学校の前身寺子屋方式の学校がありました。曽木川によって曽木の水田は開け、今日の発展があります。当時は水流も多く、川舟で流れを利用して、上流地帯の木材を流し、吐合で筏に組んで延岡まで運んでいました。柳瀬には終戦後に再開された老舗「湯川百貨店」の営業が継承されている。また全盛期には宿屋もあり、映画館2軒、飲み屋数件の繁華街であったそうです。
 

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街並み
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街並み
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老舗湯川百貨店
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庚申塔群
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庚申塔サルタヒコ
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曽木川と町並み
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上流を望む
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旧橋桁
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街並み


    明治になってからの交通機関としては、客馬車が往来していました。北方村内を客馬車が走り出したのは、明治45年(1912)で曽木柳瀬と滝下の二箇所に停車場がありました。当時は6人乗りで鉄輪の車輪であったため、ガラガラと喧しい音をたてていたものでしたが、後にゴムとなり、快適な乗り心地の交通機関になりました。槇峰鉱山全盛期には、延岡の銀行から鉱夫の賃金などを運ぶ大八車が往来したと言われています。 宮崎県で北方村に最初に発電所が出来、猿渡鉱山用として、30キロワットが発電されました。更に槇峰、日平鉱山の進展により、電力需要が増え、水力発電の設備が進められました。それぞれ従業員の住宅にも送電されて、山の斜面の社宅、工場などには明るい電灯がともり、北方町史には「槇峰、日平の夜景は不夜城の感があった」と記されている。

■慈眼禅寺・・・幕末には勤皇僧、胤康和尚の住職された寺院であり、日向倒幕運動の拠点となりました。 。

■客馬車の絵・・・走っていた馬車の絵です。
 
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