西郷隆盛陣頭指揮の地

西郷隆盛陣頭指揮の地 :(宮崎県延岡市無鹿町)

和田越決戦南洲翁初めて戦場に立つ

8月15日(旧暦7月7日)晴天、南洲翁は開戦以来初めて戦場和田越え戦場に立つ。薩軍3,500人は長尾山・小梓山・和田越・無鹿山に布陣し、樫山山上にに立った山県有朋中将の率いる政府軍は、稲葉崎・大武方面に布陣し、5万の兵で攻撃した。灼熱地獄の中での死闘5時間、午前9時頃砲声最も激烈、11時頃薩軍の一角より敗れ、午後2時頃全軍敗走し、俵野に至る。

和田越えから見た戦場
和田越えから見た戦場
石碑周辺
石碑周辺
決戦の地記念碑
決戦の地記念碑
案内
案内

関連サイト

西南の役とは
西南戦争の意味や遺跡などです。
可愛嶽登山
薩軍が突破したルートです。

周辺見所

下の写真は西南の役、和田越えの戦いの主戦場の風景である。今もそうだが、かなりの沼地で人馬ともに足を取られ、苦しい戦いであったらしい。

戦場風景

8月15日、稲葉崎村和田越(わだごえ)(現延岡市)決戦の日である。 官軍の山縣有朋中将は、稲葉崎村の樫山の頂上に立って全軍を指揮した。薩軍の西郷隆盛も、開戦以来初めて戦線に姿を現し、和田越の頂上に立って、決死の覚悟で戦闘に参加した。両雄が、約1500mを隔ててにらみ合ったのである。

官軍は東と南から攻撃した。東方海上には官軍の軍艦も砲門を開いていた。官軍五万余名、薩軍はわずかに3,500名だった。薩軍は西の方、長尾山から小梓峠・和田越え・無鹿山・友内山を連ねる稜線から南に向かって展開し、東南から攻め上ってくる官軍と戦火をまじえた。午前7時の戦闘開始、激戦が続いたが、多勢に無勢。圧倒的な平気と火力の差があり、同日午前2時ごろには薩軍は敗れて長井村俵野(ひょうの)方面に後退した。

西南戦争和田越決戦記

西郷南洲延岡入り

明治10年2月鹿児島を発した薩軍は、熊本城攻めの植木・田原坂の激戦に敗れて矢部に退き、人吉・宮崎・都農を経て、8月2日大貫の山内善吉家に南洲翁は初めて延岡入りをして宿陣した。 10日原時行邸に宿陣、11日北川に於いて舟中露臥、12日熊田の吉祥寺に宿陣、13,14日は笹首小野彦治家に宿陣し、軍議を重ね、15日未明北川を舟で下り、和田越戦場に向かった。

延岡陥落

8月14日各戦場より退却した薩軍は延岡に集結したが、政府軍の包囲攻撃を受け、和田越稜線に退き、明日の決戦に備えて布陣した。延岡隊もこの日野田において降伏し、奇兵隊進駐以来の延岡はついに陥落した。

西南戦争関連史跡

◆西郷隆盛宿陣の地(資料館)
宮崎県延岡市北川町長井6727
郷隆盛宿陣の地である旧児玉熊四郎宅です。現在は資料館となっています。
◆小倉處兵自刃の地
和田越えの戦いで負傷した小倉處兵が自刃した場所です。
◆西郷菊次郎療養の地
西郷隆盛の息子が療養していた地です。
◆中津大四郎自刃の地
旧豊後街道沿いの山中
西南の役の終盤、薩軍の解散を知って割腹した地です。
◆桐野利明宿営の地
薩軍の重鎮、桐野利明が最後に宿営した地です。
◆地蔵谷(西郷隆盛露営の地)
可愛岳突破に成功した薩軍は地蔵谷の林中に一泊した。
◆西郷隆盛通過の地(見立渓谷)
可愛岳突破、上祝子川、鹿川からこの地へ。。

■西郷隆盛通過の地(見立渓谷)(宮崎県西臼杵郡日之影町仲組)

◆須木陣営の跡
◆退軍の道(飯干峠)
◆弾痕石
◆延岡隊最後の奮戦地
薩軍の北川方面への退却を知り、今はこれまでと延岡隊四十余名は、官軍に降伏を申し入れ、武装解除のうえ収容された。
◆細島官軍墓地
迫田鉄五郎少佐以下282名の兵士が眠っています
◆馬見原官軍本陣の跡
鏡山の攻防戦で官軍の拠点であった。
◆山田顕義少将宿陣の跡(中条家)
山田顕義少将宿陣の中城家です。
◆有栖川征討総督御本営の跡
西南の役県北地域において薩軍鎮圧の総指揮にあたった摂津屋善兵衛邸です。
◆門川薩軍本陣跡(赤澤邸)
薩軍本陣の赤澤邸です。
◆高千穂の官軍墓地
本郡内で戦死した官軍兵士の墓42基がある。
◆西郷隆盛宿陣の跡(吉祥寺)
北川をさかのぼった西郷隆盛が宿陣した跡です。
◆耳川の激戦地跡
美々津耳川を挟んだ激戦地の跡です。
◆鏡山の戦い
熊本県と宮崎県の辺境の県境、鏡山の西南戦争の跡です。
◆金光寺
五ヶ瀬町鏡山の戦いにおいて、西郷隆盛・桐野利明が宿陣した寺院です。
◆比叡山激戦地の跡
鋭鋒比叡山直下の激戦地です。
編集後記

西南戦争の今に残る史跡を訪ねたものだが、その資料の多さには驚くものがある。宮崎県においてその影響は、計り知れないものがあったであろうし、年代的においても、風化していないことを思うと、ついこの間の出来事と言えるのかも知れない。

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