小倉處兵自刃の地

小倉處兵(しょへい)自刃の地 :(宮崎県延岡市北川町俵野三足高畑山の中腹)

参道入口の空き地に車を停めた。「🙇」。民家の上を、細い山道が伸びている。 急坂に積もった落ち葉で足が滑る。周囲は樫、椎、山桜などの雑木に覆われている。「およそ15分、400m」と聞いてきた目的地ではあるが、途中で息が切れ、数回休まなくてはならなかった。この山道は「自刃の地」で終わっている。自然の循環サイクルで路が消えたか、あるいは無かったか?。いづれにせよ、銃創の傷癒えぬ身でここまで来た。深夜である。官軍の手前、松明さえままならなかったろう。急坂の雑木林の道なき道を、数人の部下と共に、木々に身を預けながら、明日も見えない、まさに暗夜行路。思うに、西郷軍出立の報を聞いた小倉處兵は、追いつこうと直線的に近道をしたのかも知れない。う~む。すごいね。時代とはいえ、命を掛けるという事はそういう事なのだろう。自分の甘さを感ぜずにはおれない。墓石に深々と頭を下げた。

(A):自刃の地、(B):駐車した空き地(駐車場ではありません)

手前の看板
JR手前の看板。JRを越えて左折。
看板
看板
駐車スペース
駐車スペースのある場所。
案内柱
駐車したら案内柱。ここは左に行ってはいけない。
足場が悪い
登り始めは足場が悪い。
左手に見える
ここの左手に見える。
小倉處兵自刃の地の墓石
小倉處兵自刃の地の墓石
小倉處兵自刃の地の墓石口
小倉處兵自刃の地の墓石、倒木のため正面からは撮れなかった。

西南の役

西南の役の跡地など。

小倉處兵とは

飫肥西郷といわれた小倉處兵です。
墓石内容 墓石

長崎留学制を創立し、小村寿太郎等を送る。明治四年官命により、英国に留学、伊藤博文等と親交あり、明治十年二月飫肥に帰り薩軍に投ず。無鹿山にて大腿に銃創を受け、舁がれて川坂畑を谷神田伊助宅に来たが、永く居らず。舁がれてこの地に来り、咽喉を突いて絶命。その後55年間、この地は、香春健一の踏査まで不明だった。其の後四十二年間其の碑の建っていないのを嘆いて、勲三等黒木政治建之 昭和49年12月



看板内容

小倉處兵(しょへい)自刃の地(明治10年西南の役) 小倉處兵は弘化三年(1870)文部権丞となり、翌年英国留学、同六年帰朝して文部権大丞となる。

明治十年西南の役が起こると、郷里飫肥で兵を募り、4月8日には、熊本城を攻める薩軍に合流し、後に野村忍介率いる奇兵監軍として、日向、豊後の山深く遊撃戦を展開した。 同年8月15日和田越えの激戦で、大腿部に貫通銃創を負い、北川町長井川坂の神田伊助方で加療中の17日の夜、西郷軍の可愛岳突破を知り、後を追うが志ならず、この俵野三足高畑山の中腹で自刃した。若干32歳、あまりにも惜しまれる「飫肥西郷の終焉であった。

北川町教育委員会

編集後記

何回探しても解らなかった。今回は資料館の管理人さんから教えていただいて、やっと来れた。場所的にチョッと奥まった位置にある。この地の翁の話によると、飫肥より遺体の引き取りがあり、この墓の下には遺骨は無いとの事。

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