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西南の役

明治10年、世情は政府に対する士族の不平・不満が全国的に噴出し、反乱が、いつ起きてもおかしくない状況であった。また民の生活も苦しく、「地租改正反対」の農民一揆が各地で勃発し、各地で大規模な農民一揆が起きたりしていた。

そのような中、征韓論に敗れた西郷隆盛は薩摩に帰り、若者育成の私学校を造っていたが、政府がその意図を曲解し、恐れ、薩摩軍の弾薬を勝手に運び出そうとした。それを見つけた私学校の生徒達が激怒し、政敵であった大久保利通の西郷隆盛暗殺の噂などもあり、一気に対政府戦争へと盛り上がっていった。西郷隆盛自体はそれを本意としなかったが、時勢の流れはいかんともしがたく、大将に祭り上げられてしまった。ということだろうか。

一見内戦の様を呈しているが、官薩両軍が互いに国を想うあまり、戦いにまでいたった内輪もめであった。それにしては規模は大きく、過去最大の戦いにまで発展し、多くの有為な犠牲者を出した汚点はぬぐいきれない。

西郷軍は薩摩軍有志一万三千人で挙兵した。其の後各県に激を飛ばし、それに呼応した各県から、合計すると総勢三万五千人になった。

これに対する官軍は、総勢六万人余、戦費も国家子算の八割の四千二百万円を使い、薩軍とは圧倒的な差があった。薩軍は、軍資金(百万円)も乏しく、西郷札という紙幣を発行・乱発。物資も現地調達のため各地に負担を強制。特に薩摩札は戦後各地に重大な被害をもたらすことになる。

西南の役とは ウィキペディア

西南の役史跡

宮崎県にも多くの西南の役の爪痕が残されている。

◆和田越えの戦い

西南の役で、西郷自身が一度だけ、陣頭に立った場所です。

◆山県有朋中将陣頭指揮の地

西南の役で、和田越えと対面する山県有朋中将陣頭指揮の地、樫山の山上。

◆西郷隆盛宿陣の地(資料館)

郷隆盛宿陣の地である旧児玉熊四郎宅です。現在は資料館となっています。

◆小倉處兵自刃の地

和田越えの戦いで負傷した小倉處兵が自刃した場所です。

◆西郷菊次郎療養の地

西郷隆盛の息子が療養していた地です。

◆中津大四郎自刃の地

旧豊後街道沿いの山中
西南の役の終盤、薩軍の解散を知って割腹した地です。

◆桐野利明宿営の地

薩軍の重鎮、桐野利明が最後に宿営した地です。

◆野口雨情歌碑

逢いはせなんだか・・・・。時代の的を得た歌である。

◆可愛岳登山

西郷隆盛が歩いたであろう可愛岳突破の路、歩いてみました。

◆地蔵谷(西郷隆盛露営の地)

可愛岳突破に成功した薩軍は地蔵谷の林中に一泊した。

◆西郷隆盛通過の地(見立渓谷)

可愛岳突破、上祝子川、鹿川からこの地へ。。

◆須木陣営の跡

◆退軍の道(飯干峠)

飯干峠の鞍部にある。

◆弾痕石

北方町にある薩軍が射撃訓練をしたという岩。

◆延岡隊最後の奮戦地

薩軍の北川方面への退却を知り、今はこれまでと延岡隊四十余名は、官軍に降伏した。

◆細島官軍墓地

迫田鉄五郎少佐以下282名の兵士が眠っています

◆馬見原官軍本陣の跡

鏡山の攻防戦で官軍の拠点であった。

◆山田顕義少将宿陣の跡(中条家)

山田顕義少将宿陣の中城家です。

◆有栖川征討総督御本営の跡

西南の役県北地域において薩軍鎮圧の総指揮にあたった摂津屋善兵衛邸です。

◆門川薩軍本陣跡(赤澤邸)

薩軍本陣の赤澤邸です。

◆高千穂の官軍墓地

本郡内で戦死した官軍兵士の墓42基がある。

◆西郷隆盛宿陣の跡(吉祥寺)

北川をさかのぼった西郷隆盛が宿陣した跡です。

◆耳川の激戦地跡

美々津耳川を挟んだ激戦地の跡です。

◆鏡山の戦い

熊本県と宮崎県の辺境の県境、鏡山の西南戦争の跡です。

◆金光寺

五ヶ瀬町鏡山の戦いにおいて、西郷隆盛・桐野利明が宿陣した寺院です。

◆比叡山激戦地の跡

鋭鋒比叡山直下の激戦地です。
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