佐土原城

佐土原城 :(宮崎県宮崎市佐土原町上田島8202-1)

ここは一見して「古城」という雰囲気ではない。駐車場に入ると、まず目に付く正面の宮崎市佐土原歴史資料館(鶴松館)、立派な建物だ。門を入ると庭園がある。枯山水みたいな庭園である。そこを抜けるといよいよ山城の域内にはいる。本来の登場口が工事中だったため、裏手からはいったが、細い急峻な登城道である。石垣などは一切無い。天然の崖を利用している。20分程で本丸についた。山頂の本丸跡は意外と広い。天守跡などを見て、帰路に就いたが、ここで不思議なことが起きた。別の道を目指したはずなのに・・・。グルグル回る山道はこれだから怖い。また同じ道。もう少しで無限ループだ。何とか降りて資料館の管理人さんに聞いたら、本来の道を行けば見所も多かったとの事、次回に回そう。

佐土原城址看板
佐土原城址看板
鶴松館,佐土原歴史資料館
鶴松館,佐土原歴史資料館
佐土原城内堀跡
佐土原城内堀跡
正門
正門
庭園
庭園
番所跡
番所跡
古い井戸
古い井戸
大石に挟まれた坂道
大石に挟まれた坂道
途中の曲輪
途中の曲輪、ここを上がる。
虎口
虎口
本丸跡標柱
本丸跡標柱
本丸の尾根続き
本丸の尾根続き
天守台跡
天守台跡
工天守台跡の標柱
天守台跡の標柱
天守台跡の石垣
天守台跡の石垣
天守台跡
天守台跡

佐土原城は、戦国の伊藤氏・島津氏によって山上の要害としての整備が行われた。 その後、寛永二年に二代藩主島津忠興が、山城の本丸から山の下に居館を移し、佐土原島津藩三万石(元禄三年以後二万七千石)として明治二年の広瀬転城まで、この地で範を統治していた。

蓮ヶ池横穴群

古墳時代の遺跡、山丘に沢山の墳墓が掘られている。人骨は必見。

巨田神社と大池

荘園時代の寺である。近くにある大池は古式鴨猟であまりにも有名。

都於郡城

戦国時代同じく伊藤氏48塁の一つ、巨大な山城は整備され見ごたえ十分。

佐土原城とは

ウィキペディア

■本丸

城の中で一番中心になる曲輪を本丸という。ここは山城の中で、一番標高が高く防御上も有利なところなので、本丸となった。かなり広い曲輪だが、掘り下げた道などで分割して使用していたようだ。建物もあったはずだが、殿さまは普段はここにいず、麓の居館に住んでいたと思われる。しかし、いったん戦争になれば、ここが一番中心の曲輪になり、殿さまが入った事だろう。江戸時代初めごろまでは、この本丸も使われていたようだが、寛永二年(1625)この本丸も含めて山城は廃止された。

■天守台跡

古い文献や絵図をもとに、以前から佐土原城には天守があったのではないかと言われてきた。平成8年(1996)から始まった本丸跡の発掘調査で、古絵図の位置に天守台跡が確認された。天守が二層か、三層かなど構造についてはこれからの調査を待たねばならない

■本丸の尾根続き

この佐土原城の山城の中心が本丸だが、この西の端が本丸から外へ続く唯一の尾根になる。本来なら、敵が攻め寄せてくる方向になるのだが、尾根との落差が15m以上あり、しかも両側から谷が入り込み天然の空堀となって、山城部分を即立させている。そのため、この方面からの敵の攻撃は全く無理だと考えられる。そこでこの方向は城として安心できるので、ここを拠り所にこの城の縄張り(城の設計プラン)が考えられたと思われる。

(現場看板より)

虎口

■本丸の枡形虎口(こぐち)

本丸は城の中では最も重要な曲輪だから、その出入り口であるこの虎口も、防御の工夫が施したある枡形虎口に作られている。枡形とは、四角い空間の意味で、枡の形に似ていることから付けられた名称である。道を直角に曲げて、そこに城門を作り、(そこに四角い空間ができる)敵を効果的に攻撃するようになっている。戦争のとき、敵がこの枡形虎口を打ち破るのは大変な努力が必要だった。

(案内板よりの加工ですが、なかなか面白いイラストです。)

編集後記

戦国時代、本城や都於郡城、これほど大規模な城郭を有していた伊藤氏の権力は、絶大なものであったろう。また何で負けたの?油断大敵。

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