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宗麟供養塔

宗麟供養塔地図 ココ

宗麟供養塔:国指定史跡(宮崎県児湯郡川南湯迫)

湯迫の台地の西端に豊後塚がある。その前に宗麟供養塔が建っている。 この供養塔は、天正6年11月に行われた豊後の大友氏(宗麟)と薩軍の島津(義久)氏の合戦(通称高城之戦)の戦没者を供養した塔である。耳川合戦終結より約10日後の天正6年11月21日、島津義久は薩摩(鹿児島)福昌寺の僧を高城へ派遣した。23日、高城川原にて、豊後方の死骸を集め「豊後塚」と号し、福昌寺の僧と三百余人の僧にて大施餓鬼を行い、戦死者を敵味方の区別無く手厚く弔うように高城城主山田信介有信に命じ、さらに天正12年、合戦の七回忌に当たって大施餓鬼を行うように命じた。

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高城攻防戦図

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供養塔前広場

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供養塔由来

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供養塔

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六地蔵

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入り口案内柱・付近は牧畜地帯

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塔身

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丘全体が塚

botan 供養塔の完成は銘によると天正13年2月である。塔の形式は六地蔵幢で竿石には

干時 天正十三年 大施主 ●一五八五年・・・等が記されている。

塔身正面: 干時天正十三年二月彼岸日  大施主 源有信 山田新介 背 面:   諸行無常 是生滅法 寂滅為楽 生滅々巳 左右側面: 迷故三界滅 悟故十万空 本来無東西 何故有南北

*世の中には敵味方などないという意味。ゆえにこの碑は「赤十字精神」の発露と称されている。宗麟供養等は両軍7千名と、あまたの民の命の重みを含んでいる。

高鍋木城串間紀行

botan 戦国の世、薩摩隼人は勇猛果敢かつ情をかけるという余裕があった。宗教かぶれして、何もしない神社仏閣を全てぶっ壊した片方とはえらい違いだ。まあ勝って当然か。

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行きかた 川南町だが、木城からも近い。湯迫の畑の中のこんもりとした森の中に有る。どちらから行っても、幹線道路の分かれ道には、小さいが案内板が立っている。実は、初めてだったので詳細はよく分からないが何となく行けた。
周辺見所

botan 高城址

botan 比木神社

botan 永山古墳

数百m南方には、大友方の陣地「松山の陣」がある。この陣地は高城を攻めるための城、いわゆる付城で、戦いのためだけに使う城なので合戦時の城の構えをよく残していると考えられる。城のもっとも重要な部分である主郭部は三つの郭でそれぞれ独立する南九州独特の形態である。
拡大 石の古さからみて近年建立されたものであろう。大分県(豊後)の方達が建立されたとある。

かんかん仏

この供養塔は通称かんかん仏と呼ばれています。この名は大正時代まで、供養祈願する人々の打ち鳴らす鐘の音で、終日が暮れたことから呼びならされている。