西光寺

天嶽山西光寺(さいこうじ) :(大分県竹田市大字会々2242)

駐車場に着いた。すぐ目前にいかにも由緒ありげな寺院があった。本殿二階の土壁のところどころに、四角の穴が開いている。あれが鉄砲穴なのか。山門をくぐった。本堂前に藤丸警部の銅像があった。実をいうと私がここに来た理由は藤丸警部の過去の確認であった。近くから本殿二階のの穴を見ると、あれは確かに城に構えてある銃座だ。当時の寺院の厳しさを覗いた思いがした。長時間ウロウロして帰ろうとしていたら、妙齢の夫人が出てこられた。軽く会釈を頂いた。

寺社の前を川が流れている。大野川の支流だろうか。そこに花水月のバス停がある。川の中に「川原石が」置かれてあると案内板に書いてあったので、おそらくここだとバス停に向かった。川原の下方を見ると何か石碑がある。当た〜り。探していたのはここだった。

山門
山門
石碑
時々見かける、酒・色禁止の座禅の?石碑
二階建ての鐘楼
二階建ての鐘楼
本殿
本殿
本殿入口の彫刻
本殿入口の彫刻
藤丸警部銅像
藤丸警部銅像
二階の鉄砲口
二階の鉄砲口
寺社全体
寺社全体
岡城址
豊後の名城。中川氏の居城です。
キリシタン洞窟礼拝堂
禁教時代の洞窟礼拝堂です。
沈堕の滝
この城の下流にある名瀑です。
原尻の滝
緒方町の有名な名瀑です・

    長昌寺

  • 藤丸警部が警察署長を務め、薩軍と戦った本営跡です。

西光寺・・・は浄土真宗西山派の寺で、本尊は阿弥陀如来である。中川家が播磨国三木(兵庫県)から移封された翌年の文禄4年(1595)に初代藩主中川秀成が岡藩を訪れた。「三木西光寺」の恵明上人にこの地にとどまり寺を起こすように求めて建立した。はじめは市内の代官所に建てられたが、延宝7年(1679)に現在地に移された。

銃座

西光寺本堂(市指定有形文化財)・・・ 本堂は重層で上層は塗込土蔵造となっており、華燈窓(かとうまど)と銃眼状の小窓に特徴がある。安政5年(1858)に再建された。

西光寺山門(市指定有形文化財)・・・ 屋根は切妻造りで、桟瓦で葺かれている。脇門と脇塀を伴う禅宗様式の珍しい4脚門で特に親柱が棟まで立ち上がり、中央間藁座が柱間いっぱいに広がっているのが特徴である。この形式は中国などの建築に多く見られる。延宝8年(1680)に建立された。

西光寺鐘楼附(つけたり)棟札(市指定有形文化財)・・・ この鐘楼は、二階建ての鐘つき堂である。入母屋造りの本瓦葺で、袴腰となっている。棟札により、建築年代が元禄4年(1691) とわかり、大分県内最古の鐘楼である。

西光寺梵鐘(市指定有形文化財)・・・ 鐘楼の中に吊るされている梵鐘は、慶長14年(1609)5月27日に鋳造された銘文が刻まれている。高さ102cm、口径62.8cmである。近隣地区で現在に残る最古の梵鐘である。

竹田市教育委員会

藤丸警部斬首の地

花水月バス停
花水月バス停
下木川原
下木川原
藤丸警部斬首の跡
藤丸警部斬首の跡
川原石「藤丸警部殉職の地」の標示
川原石「藤丸警部殉職の地」の標示

明治10年の西南の役で、政府軍の偵察員として活躍し殉職された臼杵市出身大分県十等警部藤丸宗造氏の像である。 像の作者は、昭和23年文化勲章を受章された朝地町出身・朝倉文雄氏である。氏や兄渡辺長男氏の作品は市内各所に見ることができる。

藤丸警部は、当時佐伯警察署の重岡分署長だった。薩摩軍の大分県への侵入を竹田署や熊本の政府軍に報告し、竹田地方の薩摩軍の動きを偵察中に薩摩軍に捕まった。明治5年5月23日、政府軍が竹田に迫ったとき、下木川原で斬殺された。川原にはその場所を示す川原石が置かれている。

「魂魄(こんぱく)となって空中に遣り、人民保護」と叫び、藤丸警部は33歳の人生を閉じた。 その一部始終を見ていた西光寺第19世、孤松上人は、その霊をねんごろに弔った。以後毎年5月23日には、この西光寺に関係者が集まり、慰霊法要が今も行われている。

また亡くなって十有余年の歳月を経て、町内有志の人々によって、「平和なふるさとづくりの資に」と就義碑が一事稲荷神社入口右側に建てられた。 さらに本殿内には、藤丸警部の最後の場面を直接見ていた方々から話を聞かれた深沢画伯が精魂込めて描きあげた殉職最後の想像図がある。

        歴史と文化を考える会

編集後記

今回は、何でこの地(藤丸警部殉職の地)が気になったのであろう。偶然が重なって、宇目重岡の長昌寺に行き、藤丸警部にたどり着いたわけであるが、何かの縁でもあるのだろうか。しかしこの寺社には鉄砲口が幾つもある。防備の為だろうが、戦国ゆえか、あるいは宗教的な何かがあるのか、歴史の重苦しさを感じた。

Copyright©2008 nAn All rights reserved.
TOPへ