海軍中佐「廣瀬武夫」生誕の地

海軍中佐「廣瀬武夫」生誕の地 :(大分県竹田市大字竹田2761)

竹田城址からの帰り道、偶然ここに迷い込んだ。「廣瀬武夫海軍中佐」どこかで聞いたことがある。説明文を読んだ。あっそうか!思い出したような気がした。かっての軍神の存在も、今は「知る人ぞ知る。知らない人は全く知らない」時代になったのであろう。生家跡地を見ていると、往時の様子が想像される。好みの食事を用意して、出世した子を待つ母親。中佐の軍服に身をまとい、意気揚々と帰省する廣瀬武夫。そのような光景があったのではないか?。ふと感傷に浸る。

廣瀬武夫生誕の地石碑
廣瀬武夫生誕の地石碑
生家跡
生家跡
生家跡
生家跡
廣瀬武夫生誕の地石碑
廣瀬武夫生誕の地石碑、表の通り。
キリシタン洞窟礼拝堂
禁教時代の洞窟礼拝堂です。
西光寺
西南の役の藤丸警部の墓があります。
沈堕の滝
この城の下流にある名瀑です。
原尻の滝
緒方町の有名な名瀑です・
廣瀬武夫中佐
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廣瀬武夫生誕の地

廣瀬中佐写真 廣瀬武夫は、慶応4年(1868)5月27日、ここ豊後国直入郡竹田町(現在の大分県竹田市)茶屋の辻に生まれた。廣瀬家の始祖は、肥後の菊池一族で、父・廣瀬重武は、岡藩の下級武士として仕えた。幕末には勤王の志士として活躍し、維新後は裁判官となり飛騨高山や天草などに赴任、晩年は故郷の竹田で暮らした。

明治10年(1877)、廣瀬家は西南戦争の戦火に遭ったことから、重武の赴任地飛騨高山へと引っ越す。武夫は、小学校教師。攻玉社を経て、海軍兵学校へ入学、卒業後少尉候補生として遠洋航海し、水雷術の訓練を受け、日清戦争では水雷艇に乗り込み、、大連湾、旅順湾口に掃海。

廣瀬中佐写真 明治30年(1897)、ロシア留学を命じられ、後に交戦国となるにもかかわらず4年8か月間に及ぶ人間対人間の交流を経て、厳冬のシベリア経由で帰国している。戦艦「朝日」水雷長として演習回航後、日ロ開戦となり、ロシアを愛した武雄も旅順口閉塞作戦に閉塞隊指揮官として出撃することになった。 第2回閉塞作戦で行方不明となった杉野孫七上等兵曹(後に兵曹長)を捜索後、脱出の途中ボート上で被弾し、戦死。ロシヤに、魅せられ交友を深めながらロシアとの戦いで戦死した悲劇と言える。道路を隔てた向かい側には、兄・廣瀬勝比古による「海軍中佐廣瀬武雄誕生の地」という石碑が建立されている。

編集後記

昔の偉人の誕生の地というのは、往々にしてこのように、意外と平凡な地であるのかもしれない。豊臣秀吉にしてもしかり、要するに出世する人たちはハングリーなのだ。このような田舎から歴史に名を残す人が誕生する。反省の一言である。
*道順を忘れたので、アプリでGPSを測定したため位置に誤差があるかも、済みません。

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