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大人神社と甲斐宗攝の墓

大人神社と甲斐宗攝の墓地図

大人神社
旧称:宗攝(そうせつ)八幡
日之影町大字岩井川2109
創立年月日:不詳
祭神:品陀和気尊、大年神、大山祇命、菅原道真公、甲斐宗攝
例祭日:10月9日
昔は大日止(おおひと)と書き、ニニギノミコトが高天原から高千穂御降臨の後、しばらく御留まりになった事から「大日止」と言ったと伝えられる。その由緒の地が汚されないために、15代の天皇オオジン天皇を祭り併せてこの地の豪族甲斐宗攝を合祀し、宗攝八幡と称していたが、明治4年現在名に改称した。

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大人神社鳥居
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拝殿
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本殿
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線刻六地蔵幢
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線刻六地蔵幢由来
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甲斐宗攝の妻おやひさまの墓
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石塔建立日
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墓石の説明
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甲斐宗攝の墓
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案内板
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一族の墓
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説明板と一族の墓
botan甲斐宗攝の墓:
宗攝は高千穂地方を領有した三田井家の武将。延岡領主の高橋元種の計略に引き込まれ、主人にあたる三田井親武を討った後、高橋軍に追われ、切腹ししている。地区の発展に力を注ぎ、人身御供を猪に変えるという英断をした武将であり、地区民は丁重に慰霊し、墓を建てて祀った。墓碑は大人地区の中心部の高台にあり、宮崎巨木百選の「マキの巨木」と並んでいる。1.2m角の台石の上に、直径約20cm、高さ75cmの塔石、上部に「心」の文字がかすれ、「捐館口口宗攝居十尊霊」と刻み、「文禄四年乙未九月九日」。周囲は丸く平たい石が敷き詰めてある。「この石は追川地区から運んだということ。
botanおひやさまの墓:
同地区の追川の美女・梅ヶ枝を愛人としたのを、妻の「おひやさま」が立腹して、家臣に討ち取りを命じた。梅ヶ枝は矢を射かけられ、一の矢を右手で、二の矢は左手、三の矢を口で受け止めたが、四本目の矢が命中して死亡したという話も残っており、「おひや様」と地元の人が言うのは「おへやさま」と推察される。
周辺見所

◇歌舞伎の館・・・地元の人がお役者さん。地元に伝わる由緒ある歌舞伎です。

◇岩井川神社・・・近くのある神社。巨樹百選と長い階段があります。

◇西南戦争弾痕石・・・日之影市街の山並みを少し登ったところに西南戦争の銃弾の跡が残っています。



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イヌマキ 大人地蔵のイヌマキ(宮崎巨樹百選)
甲斐宗攝の墓の横にある宮崎巨樹百選のイヌマキです。
特大写真(220KB)
巨樹百選 樹木名:イヌマキ
樹齢 :四百年
幹周 :470cm
樹高 :40m
娘の人身御供とは
高千穂神社の側の鬼八申霜宮の祭りが12月13日に行われ、この供え物に13歳以下の女の子を大人地区から送らねばならなかった。少女たちは祭りが住んで帰宅しても、体が弱るか死ぬかしたといわれる。祭りの前にどこからか白羽の矢が娘の居る家に飛んできて、指定するというのである。祭りのたびに大人地区は、深い悲しみに包まれた。これを宗攝が猪に変えたという。一説には「野猿」を供えたという。
宗攝の最後
延岡高橋元種の計略に乗せられた宗攝は、肥後(熊本)の岩尾城から薩摩の島津氏を頼って落ちてゆく甲斐兵庫守秋政を助けたことを口実に、文禄4年(1595)4月、水清谷四郎三郎を将とする2千人で攻撃された。高橋元種が狙っていた戦機であった。水清谷四郎三郎も戦死するほどの激戦であったが落城し、宗攝は中崎城を脱出。小原峠に出た後、向山に向かった。そして松ノ木で取り囲まれ、五ケ瀬川岸の鶴の平に追い込まれ、自刃した。日之影町高橋には宗攝供養碑が建てられている。
(民俗探訪故郷365日より)