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尾高智神社と佐伯惟治の墓

尾高智神社と佐伯惟治の墓の渡し地図

佐伯惟治は、栂牟礼城(とがむれじょう)(大分県佐伯市)城主で肥後菊池氏、筑後星野氏と共に、大友氏の府内(大分市)を攻めることを企てたとして城を追われ、日向に逃げます。しかし途中で追っ手に攻められ、多勢に無勢では「もはやこれまで」と、この尾高智山中腹で壮絶な自害をします。途中までは大分県の堅田川沿いの現在の県道佐伯〜蒲江線とほぼ平行して宇山、西野、府坂を通り、南下して川井からは黒沢川に沿って馬照山に向かっています。そこから国境を越え、丸一尾に入り、小川沿いに尾高智山に入っています。そこでついには自害するしか無かったのでしょう。 この事件について実は佐伯惟治には謀反の事実は無かったのだということが解り、大友氏の許しの使いが出ていた。という説もある。そのような悲運の人ということから、地域の人たちは佐伯惟治に敬意を払い、今でも墓を守り、参拝を欠かせません。

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入り口大鳥居(ここから3.4km)
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広い駐車場
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駐車場端からの参道
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急坂です。休まないと。
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尾高智神社全景
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由来説明板
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鳥居
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手水舎
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拝殿
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佐伯惟治の墓
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一つだけの灯篭
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本殿内部
佐伯惟治:
佐伯惟治は徳が高く、領民から慕われ、家臣たちを隔てなく愛し、文武に優れた武将であった。しかし祖の名声は諸侯のねたみを招いた。そのうち惟治は山上寺住職の教えを妄信し、神社を多数建立、政治を軽んじたりした。そして惟治が九州探題職を奪い取るため、大友氏を倒そうとしているという噂が広がり、多くの諸侯が大友氏に謀反を起こすと言上した。大友氏は惟治のこれまでの忠勤振りから真意をただす書簡を送ろうとしたが諸侯が反対、ついには惟治は逆心とされた。惟治は疑いを晴らそうと家老二人を府内(大分)にやるが、両人は申し開きも許されず、殺された。大永七年(1527)年十月、大友氏は臼杵長景らに二万の軍勢で栂牟礼城を攻めさせた。なかなか落城させることが出来ず、長景は策略を練った。開城して一時日向の国へ退けば、逆心の無いことを大友氏に伝え、帰城できるようにするという血判状を送ったのである。惟治はこれを受け入れ、可愛嶽(北川町)山中で長景からの連絡を待ったが、何の連絡も無かった。その内食料も無くなり、先祖の地、伊予の国(愛媛)に逃れようと三川内に落ちるが、臼杵長景の指示を受けた新名一族に攻められ、同年十一月二十五日、尾高智の山腹で腹を切った。惟治死後、臼杵長景や新名は亡霊によって変死し、各地で災厄や異変が起きた。そこで富尾神社「佐伯市」を建て、霊を慰めた。同社の末社は大分県南部や北浦に二十数社建てられた。三川内には、惟治の刀や脇差を祀った鴟尾神社そ創建、北川町瀬口の御頭神社は惟治の首を祀る。

<引用資料>:いろいろで解らなくなった。
 
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行きかた 北浦町より三川内地区へ向かう国道388号線の古江トンネルを抜けると道路の右側に大きな鳥居が有ります。そこから北へ舗装路を上ってゆくとやがて三叉路に出ます。そこを左折すると急に道幅が広くなり走りやすい道路となります。やがて広〜い駐車場。太陽がさんさんとして気持ちいいですよ。そこに車を止めてください。そこから沢沿いに急坂を200m程登ると、佐伯惟治の墓のある尾高智神社です。
周辺見所

茶山展望台
尾高知神社本宮と自刃の跡
パイロット茶園

神社案内 神社案内標識
腐りかけた道案内標柱に手作り案内板が掲げてありました。地元の信者の方の配慮なのでしょう。個人で標柱を作るには費用がかかり過ぎます。なんかほのぼのとした暖かさを感じました。そういえば、この地域の参道その他の道路も人の手が入っている様子が伺えます。余ほど大事にしておられるのですね。
祭典のご案内 祭典のご案内
腹切場と展望台 自刃の跡(本宮)
ここから獣道みたいな山道を10分で稜線に出ますが、地下の方から車で行けます。