舟の尾の追分地蔵

舟の尾の地図

舟の尾の追分地蔵:(宮崎県西臼杵郡日之影町舟の尾)

ここは肥後道、高千穂往還だ。急峻な山道を登ったり下ったり大変な難路であったろう。急崖にへばりつくような細い道がクネクネと蛇行し、ウネウネと上下する。山々の合間を探して村々が点在する。西臼杵地方の典型的な風景である。しかしここは江戸時代の一時期、代官所が置かれ高千穂支配のの中心地であった。

追分というのは街道が左右に分かれるところで、現在の道路の「案内標識」でこの道が延岡と熊本を結ぶ往還であったことを物語っている。

追分地蔵
石垣の上に祀られた追分地蔵その他
追分地蔵
追分地蔵
高千穂往還
高千穂往還、追分地蔵
庚申供養宝塔
庚申供養宝塔
>

yahoo地図 延岡市から国道218号線を高千穂に向かう。八戸を過ぎ、暫らく行くと右手に案内板がたくさん出ているのですぐわかる(食堂の前)。そこを右折、山道を入ってゆくと道は二つに分かれるが、左に行かず、そのまま真っ直ぐ急な坂道を登って行く。この辺は結構ややこしいのですよ。30mくらい登ると突き当りを右折。10mくらいのところにあります。

■追分地蔵

拡大 この地蔵は道路案内と交通安全を兼ねた町内唯一の地蔵菩薩である。他の仏は坐像が多いのに地蔵だけは立像である。

案内板より

■追分地蔵台座の刻字

拡大

台座には「右ひごみち 左むらみち」と彫ってあり、安政六年二月吉田願主甲田豊吉の刻字が見られる。

拡大

高山彦九朗も訪れている

ここに江戸時代の尊王家で寛政の三奇人の一人といわれた高山彦九郎が寛政4年(1792)7月に舟の尾を訪れたときの日記があります。

椎畑(北方町)から坂を下りて巾22〜23mの綱の瀬川(町境)に出る。川舟で渡る。又ここも延岡領である。坂を上って下る。新町(八戸の間違いか)には20軒ほどの家がある。

椎畑から約4kmと所にあり、ここから2km程の坂を越えれば舟の尾である。30軒の家がある。夜になって弁指(べんざし)の喜惣次宅に着いた。山中まで連れて行かれ、少し小言をいう。遂に小触(こぶれ)の作十郎宅に案内され、万助宅に泊まる。椎畑から西へ約6kmの位置にあり、歩きながら見れば墓地がある。松山を焼いたところ(焼畑)が多く見られる。今夜は飯を炊かずに麦餅を一つ食べて寝る。

入り口の右に天神の杜がある。村の中央には延岡藩の代官がいる。北東の方角に比叡山あり、険阻な岩山は鋸の歯に似ている……」

引用不詳

botan 高山彦九郎とは

江戸時代中期の思想家で明治維新の先駆者であるが、各地を遊歴し多くの日記調の紀行文を残している。

編集後記

この地域はHP作成の最初頃、訪れた地ですが、なかなかここが解からず困ったことを覚えています。解かってしまえば実に簡単に来れるのですが、ルートがたくさんあってわかりづらいところもあります。この地図のように行くと一番わかりやすいです。

Copyright©2008 nAn All rights reserved.