飫肥城址

  

飫肥(おび)城址 :(宮崎県日南市飫肥10丁目1)

戦国時代には代々島津氏一族が城主であったが、天正15年(1587)に。飫肥藩初代伊藤祐平が、豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊藤氏の居城となった。

旧本丸は寛文二年(1662)、延宝8年(1680)、貞享元年(1684)の三度の大きな地震によって地割れが発生し、移転することになった。

駐車場から大手門に向かう
駐車場から大手門に向かう
大手門
大手門
武家屋敷
武家屋敷
古村寿太郎生家
古村寿太郎生家
ロケ地伊藤民部邸
映画 石井十次の生涯でロケ地(旧伊藤民部邸)
空堀
空堀
城内
城内
階段
階段
虎口
虎口の鉄砲口
松尾の丸階段
松尾の丸階段
松尾の丸正面
松尾の丸正面
旧本丸跡
飫肥城旧本丸跡

飫肥城大手門

この大手門は、周辺の石垣遺構や主柱の根石などを検証し、昭和53年に復元されてものである。

木造渡櫓二階建て、屋根までの高さ12m、一階は21.6㎡、二階は44㎡で門の巾は一階7mである。柱や梁には樹齢百年以上の飫肥杉を使用し、釘は使わない「組み式」である。

屋根は入母屋風で「庵木爪(いおりもっこう)」の鬼瓦と「月星九曜紋」の軒瓦はいづれも「伊藤家紋」である。

鵜戸神宮

日向灘に面した鵜戸埼岬の突端、断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの巨大な岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座する。

堀川運河

歴史の町、油津を両断する堀川運河は、木材運搬のために造られた。今も堀川石橋、赤レンガ館などが残っている。

飫肥城の詳細

ウィキペディア

都於郡城・・・初代藩主「伊藤祐平の実家」

戦国時代、日向の雄「伊藤氏」の本城。伊藤祐平公は都於郡城主伊藤義祐公の息子である。伊藤一族の豊後落ちの10年後、経緯はわからないが、豊臣秀吉の薩摩攻撃の際、豊臣軍の先鋒として活躍した恩賞として、飫肥を与えられた。

飫肥城

飫肥城は、「飫肥院」の跡とも言われているが、何時頃創建されたかは明らかでない。享徳元年(1452)日向国守護の島津忠国(9代)が豊後守に飫肥を与えているので、それ以前の築城と考えられる。

文明17年(1485)伊藤氏(都於郡城主)の侵攻を撃退した飫肥城には、島津豊州家が入城して、約50年に渡って中国貿易で全盛を誇った。その後、豊州家と伊藤義祐の間で28年もの間、攻防が繰り返された後、豊臣秀吉の九州遠征の功により、天正16年(1588)伊藤祐平が飫肥城に入城した。以来約300年伊藤家飫肥藩の居城として栄えた。

松尾の丸

飫肥藩復元事業により昭和54年(1979)に江戸時代初期の書院造の御殿として、在来工法を使用して建設された。建物は延べ床面積約800㎡で、御座の間、御寝所、涼み櫓、茶室など20室以上の部屋がある。

涼櫓には、豊臣秀吉が京都の聚楽邸で使用した伝えられる湯殿と同じものを復元している。建物の設計、監修は豊後、岡城や京都二条城を参考に故藤岡通夫博士が行った。

飫肥城下 重要伝統的建造物群保存地区 昭和52年5月18日 国選定

重要伝統的建造物群保存地区

飫肥城下は飫肥藩5万1千石の城下として、明治時代から昭和30年代にかけても、南那珂郡の政治、経済の中心地として栄えた。城下の形成は、天正15(1587)年、飫肥藩初代藩主伊藤祐平が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられてから、本格的に建設が進んだと考えられる。現代においても、江戸時代始めの絵図に描かれた街路がそのまま使用されている。

城下は飫肥城の南に、三方を酒谷川に囲まれた東西850m、南北900mの範囲で、南北三街路、東西七街路で方形に区画されている。 飫肥城近くから上級家臣、中級家臣、町屋、下級家臣の屋敷地となっている。

各武家屋敷は、飫肥石や玉石の石垣と生垣に囲まれ、様式に応じた門を設けている。屋敷地の広さは上級家臣の2千坪から下級家臣でも、260坪くらいまで様々である。

昭和52(1977)年、地方における小規模な城下町の典型的なものとして、九州で最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 保存地区の範囲は横馬場通り後町通り、前鶴通りを中心に約19.8ヘクタールである。

史跡飫肥城旧本丸

飫肥城は東西約75m、南北500mの城域に大小十三の曲輪と犬馬場などからなる広大な城である。各曲輪はシラス台地を空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭において特徴的形態の一つである。

戦国時代には代々島津氏一族が城主であったが、天正15年(1587)に。飫肥藩初代伊藤祐平が、豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊藤氏の居城となった。

城内の各曲輪は、本丸、松尾、中の城、今城、西ノ丸、北の丸などの名称で呼ばれていた。 このうち元禄6年(1693)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。

旧本丸は寛文二年(1662)、延宝8年(1680)、貞享元年(1684)の三度の大きな地震によって地割れが発生し、移転することになった。

(以上 現場看板より)

編集後記

この城跡に来て、「荒城の月」を連想するわけでは無いが、飫肥伊藤家の初代藩主、伊藤祐平公の事を思わずにはおれない。日向の覇者伊藤家の御曹司として生まれながら、途中島津家との戦いに敗れ、忠臣達からは離反され、冬の豊後落ち、妹や家臣達の多くが山中に倒れていった。そして豊後、その後、島津に負けた大友氏は、少なからず伊藤氏の存在をその理由としたろう。居づらい雰囲気の中、一家は四国に離散した。縁あって秀吉のお伽衆に召し抱えられた祐平公は、島津征伐軍の先鋒として乗り込んできた。どうだったろうね。その時の気持ち、故郷に錦を飾る、いや違うな、もっと大きな感動に胸があふれていたに違いない。

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