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野田埋樋用水路

野田埋樋用水路地図

野田埋樋用水路
五ケ瀬川に沿っている吉野、天下、野田にしても、大瀬川に沿っている大貫も川が横を流れていながら、灌漑用水が無かった。そこで寛政2年(1790)野田に水を引く工事が始まった。取水口は貝の畑の五ケ瀬川、国道と貝の畑道路が分岐する付近で取水し、吉野を潤しながら天下に流れる。天下橋の下流では五ケ瀬川の下をくぐって対岸の野田に渡る。この五ケ瀬川をくぐる所に用いられたのが「埋樋」(うめひ=サイフォン)の技術、当時の埋樋は松の板で「一尺八寸(約54センチ)角」の箱樋を作り、その継ぎ目に石をくりぬいて作ったジョイントを用いた。ジョイント部分からの水漏れを防ぐため、石の粉と石灰、苦汁(にがり)を混ぜてつくった充填剤で継ぎ目を埋めていた。これを五ケ瀬川の川底を横断する形で埋めて、天下からの野田に水をくぐらせた。「野田埋樋用水路」が完成したのは、寛政3年(1791)。今から260年前のこと。当時の埋樋を偲ばせる石のジョイントが野田神社への上り口に「野田井堰用水開鑿(かいさく)碑がある。中をくりぬいたジョイントの石は、その裏に置かれている。享和2年、灌漑面積の拡大と共に大量の水が必要になり、埋樋による水の供給を中止し、天下橋のそばに野田井堰を築き、東は野田一帯、西は永田(松山)、古川方面を灌漑した。(夕刊デイリー)
 

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野田町側
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野田町側水路
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甲斐奎太郎翁像
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記念碑等移転の説明
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天下町側水路
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埋樋ジョイント
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埋樋ジョイント(横)
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野田町側水路
夕刊ディリー新聞の記事を参考にしたが、旧野田埋樋用水路の設置されていた場所がどうもよく解らない。間違っていたらごめんなさい。それでもこの天下橋の近くであることに間違いは無い。「川の下に水をと通す」というような発想をよく考えついたものだと思う。それにしても当時、大河はあっても田んぼに引く水は無かったのだなあ。昔の八戸の大火のとき、側を川が流れていても消化する水が無かったことを聞いたことがあるが、なるほど水利とはそういうものだとあらためて思わされる。水道の蛇口をひねれば水が出るのは、つい最近のことなのである。
石造りの埋樋ジョイント は天下橋の東詰め、ローソンの横、野田神社入り口の左側にあります。
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甲斐奎太郎:
昭和八年、市内各地の井堰、用水路を整理統合し、岩熊井堰は近代的な灌漑施設として生まれ変わった。この事業の功労者甲斐奎太郎の銅像は、天下町天下橋の近くにある。井堰の長さ260m、幅20m。貝の畑に取水口のある北幹線水路は、五ケ瀬川流域の吉野、天下、古川地区と対岸の野田、大貫一帯をうるおし、岩熊に取水口のある南幹線水路は、大瀬川下流の小野、常富地区を経て、浜砂(はまご)出北地区を、さらに沖田川流域一帯を灌漑している。両幹線水路の延長距離は30余km、灌漑規模千数百ヘクタールに及ぶ。天下町から対岸の野田・大貫地区への送水は、現在サイフォンによっているが、かっては五ケ瀬川の川底に松材で作った箱樋を通して送水していた。