根白坂の古戦場跡

根白坂の古戦場跡の地図

根白坂の古戦場跡 :(宮崎県児湯郡木城町陣ノ内)

根白坂戦場跡は、木城町から西都市へ向かう旧道として、茶臼原台地に上る椎木坂(しいのきざか)の頂上付近に位置するといわれています。この周囲の小字名は陣ノ内と呼ばれ、いかにも戦国時代の陣跡を連想させる地名です。この台地の頂上は、今は畑や牧草地となっていますが、平坦な地形は大部隊が展開できる十分な広さを持っています。根白坂古戦場は天正十五年(1587)、大友氏が援護を求めた豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が率いる軍勢が、名将山田新介守る高城城包囲作戦にあたり、夜襲を得意とする薩摩軍の応援部隊に対処するため、大掛かりな砦を築いた所といわれています。日本全国において戦国時代の山城跡は数多く見られますが、関連する城跡と戦場跡がセットで残存している例は珍しい。

工業港入り口
根白坂戦場跡案内板
工業港入り口
目の前にある陣の内バス停
工業港入り口
木城町方面
工業港入り口
広大な牧草地
工業港入り口
柵と壕の説明図
工業港入り口
広大な牧草地・耕作された畑
工業港入り口
広大な牧草地を伸びる道路
工業港入り口
西都方面と私の多目的車。

根白坂の島津と豊臣の戦い

天正六年(1578)の高城の闘いにおいて、大友氏を破った島津氏は、九州内において正に飛ぶ鳥を落とす勢いでのし上がってきました。全国統一を目前にした豊臣秀吉にとっては、この島津氏が邪魔な存在となってきました。そのために島津氏と敵対している大友氏の頼みを受け入れ、壮絶な闘いを仕掛けることになります。

その豊臣方の宮部継潤(つねます)が根白坂に砦を構築し、その左右の高台にも陣を構え、それぞれに計一万五千人程の兵を配備して、島津軍の攻撃に備えました。一方の島津軍は、高城城主である山田新介の奮闘により、実力ある大友氏を破り、その後、豊臣秀吉軍による鉄砲や矢による攻撃を受けてはいるものの堅固に守っている状況が続いていました。しかし島津軍にとって、この高城を破られると九州征服の夢も断たれるのはもちろんのこと、何よりも敗戦の瀬戸際に立たされるという状況になりました。そこで島津義弘、義久は薩摩から2万人の兵を引き連れて、この根白坂を夜襲しました。

宮部継潤は、あらかじめ部下に命じ、多数の人夫を使い、深さ二間(約3.6m)、幅三間(約5.4m)程に堀を広げ、その塀の際に土塁(どるい)を盛って、二間程の木や竹の柱を立て二重に柵を作り、なおその中に鉄砲隊を組織して潜ませ、厳重な体制で臨みました。

島津軍の激しい夜襲は、明け方まで続きましたが、ついにはこの柵を突破できず、その後、秀長軍の藤堂、黒田、小早川軍が応援に加わったため、苦戦を強いられ、約300人程の犠牲者を出し、残りの兵を率いて敗走せざるを得ませんでした。

この高城・根白坂における勝利により、豊臣秀吉は九州諸大名の国割りを行い、九州全体を平定することになりました。日向国財部(高鍋)には、肥前秋月の領主秋月種長が移封され、以後明治まで高鍋藩の治世が続きました。

引用:宮崎の街道(教職員互助会)

編集後記

戦国時代、この地にて大合戦が行われた。何でまたこのような地で、正直な印象である。

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