松尾城址

松尾城址 :(宮崎県延岡市松山町1068)

松尾城は地元の人も意外と知らない。室町時代から戦国にかけての土持氏の居城跡。延岡から210号線を高千穂の方に向かってすぐ、松山橋の信号を右に折れ、つきあたりを左折し、10メートルほど行くと右側にお寺に上る急勾配の狭い参道がある。お寺を右に見て直進し、墓の間を入ってゆくと深い森の中に城跡が点在し、未だ土塁などの痕跡も見受けられる。。城の構成は案内板も無くわからない。 しかし、周囲には幾つもの砦らしい小山がある。その中を旧道が走り、寺などの古い建物もある。これらをすべて含んで松尾城は存在していたのかもしれない。

本丸跡
本丸跡標識
本丸跡
本丸跡
本丸跡に建つ石塔
本丸跡に建つ石塔
本丸跡
本丸跡
二の丸跡、土塁も残っている
二の丸跡、土塁も残っている
山中の道
山中の道
本丸跡
本丸跡
城入口の畑の中の道
城入口の畑の中の道
延岡城
土持氏最初の砦
井上城址
土持氏最初の城
西階城址
土持氏最初の城

豪族土持氏の興亡・・・土持氏の歴史

松尾城址

本丸入口

延岡市内には、井上城、西階城、松尾城、延岡城と4つの代表的な城址がある。その一つが松尾城祉である。室町時代、当時の豪族土持十一代宣綱の時に、文安元年(1444年)から三年がかりでこの城は築かれ、文安三年に竣工した城である。周囲1.5キロメートル、標高60メートル、自然の山丘を利用した平山城で、 城は本丸を中心に東の丸、西の丸、の三つの区域に分けられているが、今はほとんど畑地になっている。城の南は五ヶ瀬川を外堀代わりに、西は堀があったといわれ、東は水田という天然の要害の地に築かれた。北は山が迫り、南麓を東西に抜ける農道は旧高千穂往還である。

本丸入口

天正六年(1578年)十六代親成の時、豊後(大分県)の大友宗麟に攻められて土持氏は滅びるまでの130年間、ここは土持氏の本城であった。その後、豊臣秀吉が九州を平定して後、県(延岡)城主として高橋元種(五万三千石)がこの地に移封された。元種は関が原の役(1600年)の翌年から、今の延岡城を三年がかりで築城し、慶長八年(1603年)の秋にこの城を廃城した。一説によると、松尾城の石垣の石は、ほとんど延岡城に移築したと伝えられている。


関連史跡
■本東寺・・・日叡上人により開基された由緒ある寺院。
■土持神社・・・土持高信公は大友軍に追い詰められ当地で自刃された。
■土持卒塔婆(そとば)・・・土持宣綱、その子全繁両夫妻の追善供養のため建立されたもの


 

跡とえば
松尾のふるき
もののふの
駒の轡(くつわ)の
虫のみぞ鳴く
内藤藩国学者  安藤通故

編集後記

桶狭間の奇跡は、ここでは起きなかったのであろう。三万の大友軍に対して、土持軍三千、圧倒的な大友軍に対し、なすすべが無かった。最後は行縢山に追い詰められ大敗を帰した。しかし土持一族は全滅したわけではない。一部は、後に薩摩軍として大友征伐に加わっている。

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