牧之原古墳群(高塚古墳)

  

牧之原古墳群(高塚古墳) :(都城市高城町牧の原)

県道47号線に交差する広域農道を少し入ったあたり、広大な田園地帯の中、高塚古墳は存在する。古墳の横には髪長姫の銅像があり、その横には公民館らしきものがある。そこからは楽し気な笑い声が聞こえてきた。饗宴であろうか。このような歴史の土地に生まれ、育ち、落ち着いた生活することは、風来の私からしたら何か羨ましい気がする。

髪長姫石碑
髪長姫石碑
古墳
古墳
記念碑
記念碑
髪長姫銅像
髪長姫銅像
牧之原古墳

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ここにある高塚古墳は、前方後円墳が3基、他の10基は円墳で、6〜7世紀にかけて造られたものと推定されている。

本庄古墳

近くにある古墳群。こちらも髪長姫に縁がある。

西都原古墳

時代を同じくする古墳群である。古墳群としてはbP。

■髪長媛銅像(都城市高城町牧の原)

髪長媛は古事記や日本書紀にも登場する日向の絶世の美女である。日向古代の人物のなかでは、人気一番と言うことになるかもしれない。

第十五代・応神天皇は、日向国の諸県君の女(むすめ)で髪長媛という少女が、容姿端麗であることを聞き、お側に仕えさせようと呼び出された。

その髪長姫が、難波津に着いたのを見て、皇太子の大雀命がすっかり感動してしまった。そして大雀命は建内宿袮(タテウチノスクネ)大臣に頼んで「あの髪長媛を私に下さるようにお願いしてくれ」と仰せられた。建内宿袮が天皇にお許しを乞うと。天皇は直ちに髪長姫を皇太子に与えられた。皇太子「大雀命」とは後の16代仁徳天皇である。

引用不詳

■牧之原古墳群

高城町には、史跡として22基の県指定史跡がある。ここにある高塚古墳は、前方後円墳が3基、他の10基は円墳で、6〜7世紀にかけて造られたものと推定されている。

またこの付近からは6世紀の頃のものと言われる地下式横穴群や、箱式石棺が多く発掘され、人骨や鉄剣・勾玉などが出てきた。この古墳の被葬者は誰かわからないが、古墳の大きさや造りから当時の日向の諸県地方を支配していた諸県の君牛諸井(きみうしもろい)一族の墓と推察されている。

なおこの牧之原は当時牧場だったといわれ、牛諸井の娘で仁徳天皇の妃となった麗しい髪長姫が長い髪をなびっせながら噴煙たなびく霧島連山をバックに、この大地を馬を走らせていた姿が偲ばれる。

■県指定史跡 高城町古墳 指定日s10.7.2

古墳時代の家屋

高城地区内には、大井手、石山、有水の各地域に23基の古墳があり、そのうち22基が宮崎県の文化財となっている。この高城町古墳は、高崎塚原古墳、志和池村古墳とともに、日向においてもっとも内陸部に進出した前方後円墳を有するという点で非常に重要な意義を持つ古墳群である。

この古墳群内で最も大きなものは牧之原にある一号墳である。この一号墳は前方後円墳で、最大長52m、最大幅33m、最大高6mの規模を誇り、都城盆地内でも高崎塚原一号墳につぐ大きさである。この地域にはこうした前方後円墳が3基あるが、これらは畿内の影響を強く受けた形態とされており、5世紀中頃から6世紀後半にかけて築造されたものと見られる。

これらが造られた頃は南九州で墳墓が盛んに築造された時期にあたり、、全長175mを誇る九州最大級古墳・女狭穂(めさほ)塚(西都原古墳群)は、牧之原の古墳群とほぼ同時期( 僅かに女狭穂塚が先行か)と考えられている。

またここで特徴的なのが、地下式横穴墓、箱式石棺墓、木棺墓、土抗墓といった多種多様な墓制が入り混じっていることである。地下式横穴墓は地表面から縦に穴を掘り、そこから横穴を掘って遺体を納める空間を造り出して埋葬したものである。これは南九州特有の墓制と言われており、これまで16基が見つかっている。箱式石棺は、板石を箱状に配置して棺としたものであり、これまで7基(ほかに木棺墓が1基)見つかっている。 古墳時代の中頃と考えられるこれらの墓と、畿内の影響を受けているとされる高塚古墳との関係が注目されている。

(案内板より)

編集後記

古代の歴史に疎い私には、どうも古墳は苦手である。しかし、この地方には古墳時代、と言っても想像の域を出ないが、大きな集落があったのだろうね、今日、饗宴をしていた人々の中にも、当然その子孫にあたる人も多々いるだろう。また髪長姫の存在も魅惑的だ。仁徳天皇のお后様、古代といえど「噂は宙を飛ぶ」、今も同じだが・・・。

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