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槇峰鉱山跡

槇峰鉱山跡地図

槇峰銅山跡: 東臼杵郡北方町・ 西臼杵郡日之影町
国道218号線沿いの槇峰駅のすぐ手前から綱の瀬川沿いに約2kmさかのぼると、川の両側(東側が北方町、西側が日之影町)に槇峰銅山跡がある。この銅山は良質の銅で知られていたが、約300年前の宝暦〜寛文の頃、新庄屋吉右衛門によって開掘されたのが始まりといわれる。1816(文化13)年、延岡藩の御手山(おてやま)となって次第に繁盛したらしいが、詳しいことはわからない。廃藩置県後はそれまで鉱山の警備役に雇われていたり力士の友綱良輔の所有になったが、1889(明治22)年、三菱会社がこれを買い取って、近代的な本格採掘をはじめた。明治31年には五ケ瀬川に県下最初の水力発電所を設置し、鉱山に電動力の導入を行ったりした。その後最盛期には1,500名の従業員をかかえた鉱山も、太平洋戦争中の乱掘がたたり、昭和41年3月閉山した。今は狭い谷間に事業所や社宅の後を示す石垣が、段々に残るばかりだ。約1km坂道を登ってゆくと、赤茶けたズリが左側の谷間をうずめている。そこから東へわき道を500m進むと選鉱所の跡がある。
 

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美々地小学校生徒製作案内地図
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日平鉱山精錬所跡
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旭化成発電所
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まきみねはし
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槇峰鉱山精錬所跡
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石造り階段状施設跡
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中国人殉国者の碑
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干支の町槇峰(未)
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当時の社宅跡か
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何の跡かな
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槇峰鉱山跡
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美々地小学校

ここには太平洋戦争中、中国人、朝鮮人強制労働者問題がある。昭和20年2月、この槇峰鉱山では山東省出身の中国人250名が送り込まれ、終戦で同年12月帰国するまでの約10ヶ月の間に三分の一以上にあたる76名が亡くなった。このことは戦後20数年間明らかにされなかったが、昭和47年の日中国交回復をきっかけにその真相が次第に明らかにされた。そして慰霊碑建立が計画され、49年4月、槇峰橋を渡った綱の瀬川西側(日之影町七折緑台)の中腹に中国人殉難者慰霊碑が建てられ、除幕式が行われた。朝鮮人労働者については昭和14年から18年にかけて約700人、家族も含めて1,000人が連行されたといわれるが、その実態についてははっきり解っていない。尚国道から鉱山跡へ来る中間地点に日平(ひびら)というところがある。ここも江戸時代から銅山のあったところだが、今は何もとどめていない。

拡大 この地域にはいたるところに旧鉱山の跡が残っている。石垣を積んだ敷地跡や、なんやかんやの穴、山の中に忽然とコンクリートの残骸。今も残る川への排水施設。まだ歴史は終わっていない。例えばこの施設:坑排水処理場、以前見立鉱山で大量の貯留排水が川に流れ、川が赤く染まったと聞いたことがあるが、これもその関係の施設だろう。しかしかってこの地域は、県北で一番時代の先端にあった町である。映画の封切等も延岡より早かったとか。また電気などまだ珍しい時代に、夜間煌々と灯りがともり不夜城であったとか。栄枯盛衰、時代の流れの寂しさを感じる。
<引用資料>:宮崎の街道・・・宮崎県教職員互助会
 
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行きかた 槇峰は、五ケ瀬川沿いに旧国道を上ってゆく。綱の瀬川の橋を渡らず川の手前を右折。しばらくすると右手山沿いに昔の日平鉱山精錬所跡がある。そこからすぐ左手の橋が槇峰橋。そこを渡ると槇峰精錬所跡、そして中国人殉国者碑がある。そこから引き返し橋を渡り左折、支流の橋を渡ったら槇峰郵便局がある。そこから地図の通り。
周辺見所

botan 比叡山千畳敷

比叡山登山口にデンと鎮座するでっかい岩の展望台です。

botan 比叡神社

ここの祭神は複数なのでしょう。ゴボゴボと水が湧き出ています。

関連サイト
◇選鉱場跡・・・槇峰の町の西方山手にあります。新通洞坑口という鉱山の入り口もあります。
◇閉山後の槇峰鉱山・・・宮日新聞の閉山一年後の報道です。
◇日平鉱山と内藤氏の隆盛・・・今は精錬所跡地しかありません。

昭和20年代に鉱山で唄われた新炭坑節。たくましく鉱業生産に励んだ姿は昭和40年代に消えた。

都離れて幾山河、 ここは槇峰・銅(かね)の山。 開坑ここに三百年、 築き上げる宝山