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西南の役激戦地跡

西南の役激戦地跡地図 ココ

耳川の激戦地跡:(宮崎県日向市美々津)

美々津と幸脇を隔てて耳川がある。水は美しいが水深が深く、古来より軍事的要衝であった。この地域は二度も大きな戦場となっている。最初は大友軍と薩摩軍の耳川の合戦。薩摩軍に追われた大友軍は激流に阻まれ、撤退もならず。多くの人命が失われた。二度目は西南戦争。薩軍と官軍の戦いである。その様子は下記にある。この川の下流の海岸近くに中の島という小さな島があり、「西南の役激戦地の跡」の大きな看板が立っている。丁度JRの鉄橋の横である。ここに限らずこのはるか上流の神門まで川全帯が戦場であった。

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入り口の案内柱

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登る参道

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左手の3体の庚申塔

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地蔵堂

明治10年の西南戦争において、7月30日、薩軍宮崎本営は官軍の総攻撃に会い、宮崎を捨てて北走し、高鍋方面に退却した。小丸川の上流地方に塁を築いて官軍を防いだが、遂に支える事が出来ず、島田の弾薬製造所に火を放って美々津方面に退却した。各隊とも死傷者も多く、耳川に達したときは50名を越える部隊は無く、隊伍を整えるものすらほとんど無かったという。 各所で連戦連敗の薩軍は、耳川の天険に拠って官軍を食い止めんとし、東は耳川の河口から、西は山陰、坪谷、を経て神門、渡川まで塁を築き防御線として戦った。美々津でも耳川を隔てて官軍と対峙し十二斤砲などで打ち合っていたが、八月七日、官軍は耳川の上流を渡り、山陰地方の薩軍を攻撃した。薩軍はよく戦ったが多勢に無勢、遂には富高方面に敗走した。耳川下流にあった辺見、桐野の一隊は腹背共に敵を受けるに至り、山中に入って退路を求めたが得ず四散した。8月11日薩軍の500名が官軍に降伏したとの記録があるが、幸脇で降伏したものの多くが薩軍によって強徴された町民兵や村民兵であったという。8月11日耳川の攻防戦で破れた薩軍は8月14日延岡を捨てて長井に終結し、8月18日早朝可愛岳を突破、鹿児島に向かった。

美々津郷土史要約

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行きかた 日向から国道10号を南進し、権現崎公園を越え、耳川に架かる美々津大橋を渡ったところの信号を右折。しばらく行くと右手の川の中に島が見えてくる。中ノ島である。そのJR鉄橋横に大きな看板が建っている。
周辺見所

botan 歴史の街「美々津」

botan 西南戦争

botan 権現崎公園

botan 島津・大友耳川の戦い