木崎原古戦場

  

木崎原古戦場 :(宮崎県えびの市池島)

川内川と支流池島川に挟まれた広大な平地の中に、孤島みたいにポツンと存在する鎮守の森、この一帯が戦国時代の九州の桶狭間「木崎原の戦い」の舞台である。3000人対300人、どうして300人が勝つのか?、世にも不思議な戦であった。伊藤勢は、加久藤城を攻めたが勝敗が付かず、木崎原まで移動して布陣していたが、油断しているところを、逆襲され、重臣が次々に戦死し、530余人の戦死者をだし、敗走した。一方島津勢も250余人の戦死者を出したという。しかし思うに、伊藤勢はそれでもまだ数的には優位なのに何で逃げねばならないのか?名家のもろさというべきか?。

木崎原古戦場碑
木崎原古戦場碑
六地蔵塔のある鎮守の森
六地蔵塔のある鎮守の森
島津義弘公句碑
島津義弘公句碑周辺
島津義弘公句碑
島津義弘公句碑
六地蔵塔スギ
(推定樹齢400年)
島津義弘公腰掛の石
島津義弘公腰掛の石
六地蔵塔
六地蔵塔
鎮守の森の巨木達
鎮守の森の巨木達

いそぐなよ
 また急ぐなよ
 世の中の
 定まる風の
 吹かぬかぎりは

飯野城址

加久藤城の連携していた山城。

加久藤城址

伊藤軍が城の間違った部分を攻撃したせいもあって落城しなかった。

飯野の三連石橋

飯野の川内川にかかる昔のトロッコ路、三連石橋です。

都於郡城址

伊藤氏の本城。

伊藤家衰退と豊後落ち

長い時代、日向の覇者であった伊藤氏も、木崎原合戦の大敗後、部下の裏切りその他が続き、とうとう夜逃げせねばならない事態となっていく。

木崎原の戦いとは

ウィキペディア(攻防戦の様子が詳しく記載されている。)
三角田 三角田

三角田

いろいろと調べてみたがこの意味がわからない。この地方の因縁めいた別の意味があるのかもしれないが、結論として、三角の田んぼ、機械が入らない、集約農業の対象にならない、等に至った。確かに目前の田んぼは三角であるが、何故石碑まであるのだろう?。

木崎原古戦場跡県指定文化財 平成10.3.26

(六地蔵塔・首塚・大刀洗川・三角田・元巣塚)

当時、日向の覇者、伊藤義祐は、さらなる領土拡張のため、真光院攻略を企てた。

伊東軍は真幸院の入り口あたる飯野城攻略(城主は島津義勇)にかかったが、 その前哨戦として、加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に移動し、後続軍と共に布陣した。

しかし、眼前の島津軍劣勢との傲りから、油断して川遊びになどにふける者もいた。 その状況を島津の物見は見逃さなかった。報告を受けた島津軍は、緊急用の 狼煙ににより、吉田、馬関田、吉松郷及び隣の各地から軍を寄せ集め、 伊藤軍を急襲した。不意を突かれた伊藤軍は総崩れとなり、島津軍の圧勝に終わった。

島津・伊藤両氏は、この一戦を境として、その後島津氏は三州制覇の夢をはたし、一方伊藤氏は、居城都於郡を追われ衰退の一途をたどったという明暗を分けた一戦であったため、古来記に「南九州の関ヶ原の戦い」と言われている。

<参考文献>えびの市教育委員会

工業港入り口

六地蔵塔

犠牲者を供養するために、島津忠平(義弘)が建立したのが石灯籠形式の六地蔵塔(県史跡)である。文字は刻まれていないが高さ3mあり、蓮華台の上に建てられ、大きな杉の古木に囲まれている。

当時、村人や通行人、牛馬が急死することがあった。それが合戦で多数の戦死者を出した伊藤方の祟りではないかということになり、村人の不安を取り除くため、1613(慶長18)年5月に元巣が供養塚を建てた。塚は二段式石積みで高さ約1m余、幅二十数cm余の自然石である。また古戦場内跡の西隅に池島の一里塚があったが、明治時代に取り壊された。

宮崎県の歴史散歩

編集後記

人間の人生なんて、ほんの一瞬で決まるのですね。伊藤軍がもし油断していなかったら、これから始まる豊後への真冬の逃避行も無かったし、九州を制していたかもしれません。

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