加久藤城址

加久藤城址地図

加久藤城 :(宮崎県えびの市大字小田字城内)

ここも又住宅地からすぐに城址へと移る。飯野城址の車輪の空転に懲りた私は、大事をとって下の空き地に駐車した。(土地の所有者には🙇)。

予想的中、最初のV字型のカーブは、軽でさえ何度か切り返さないと曲がれない。それから急坂である。途中に説明版がある。その周囲も何かの曲輪跡だろう。雑木は生えているが空間が多い。

やがて天守、広い梅林と神社がある。天守跡としてはかなりの広さだろう。神社裏は、覗くと急峻ながけとなっている。伊藤氏が間違って攻撃した「鑰掛うど」は、おそらく神社裏のこの絶壁だろう。だったら無理だね。

大手門跡
大手門跡
登城道
登城道
加久藤城址標柱
加久藤城址標柱
虎口跡
虎口跡
梅園案内
梅園案内
梅園
梅園
竃門神社
竃門神社鳥居
竃門神社
竃門神社
  

飯野城址

戦国時代、加久藤城と共に対伊藤氏の全線基地でした。

木崎原古戦場

九州の桶狭間と云われた木崎原の戦い。

加久藤城の詳細

ウィキペディア

鶴寿丸の墓

 島津忠平 公(島津義弘)は、永祿7年(1564年)5月 加世田(鹿児島県西部 薩摩半島南西部の市。 南薩地方の中心都市。 海岸には砂丘が発達している。)より北原 氏の属城であった久藤城を修補して、加久藤城として、ここに移った。 時に30歳であった。

同年11月17日、城主 北原兼親が伊集院(鹿児島県 日置市の伊集院町)に、移封されると同時に飯野城に移った。 加久藤城には5男1女をもつ広瀬 夫人を置き、老臣 川上三河守忠智をして、ここに守らしめた。当時長男鶴寿丸(つるひさまる)は三歳であった。

 加久藤城は元亀3年(1572年)5月4日 木崎原合戦において、伊東 勢 攻撃の主目標となったが伊東 勢は、攻略に失敗し、木崎原に退き大合戦となり、壊滅的敗戦を喫(きっ)した。

 元亀3年(1572年5月)の木崎原の戦いのとき、伊東軍は間違えて、加久藤城の西の樺山浄慶の屋敷を攻撃したが、計略にかかり北側の断崖絶壁「鑰掛口」から攻略にかかった。しかし川上忠智は飯野城からの援軍を得て伊東の軍を撃退した。

編集後記

ここも戦国時代の山城跡です。木崎原の戦いでは重要な役割を果たし、島津軍圧勝の一因となりました。

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