伊藤義祐宿営の地(河内)

河内村の地図

河内村の伊藤義祐滞在の地:(宮崎県東臼杵郡高千穂町河内)

河内は高千穂の西端にあり、南は五ケ瀬川を挟み五ヶ瀬町、西は熊本と接しています。北は崩野(くえの)峠を越えて、五ヶ所高原を抜ければ豊後(大分県)です。

伊藤義祐一行が、河内村にたどりついたのは天正五年(1577)12月25日の事です。 都於郡城出発以来、17日間に及ぶ長い逃避行でした。執拗に追撃してくる薩軍との交戦、慣れない山道、落人狩りの農民、乏しい食料、寒風吹きすさぶ尾根道。その悲惨さは言語に絶するものでした。殺された者、自害した者、病死した者、逃亡した者などで、河内に到着した時、出発した時の半分に満たない人数であったといいます。あと峠一つ越えれば、九州の覇者を自認する大友宗麟がいます。宗麟は義理の娘の叔父にあたります。きっと迎えてくれるでしょうが、戦国乱世にあっては一抹の不安も残ります。また勝手に他国に入るわけにもいきません。

そこで義勇は詳しい手紙を書いて家来に持たせ、大友宗麟に助けを求め、返事の来るまで河内で待つことにしたのです。ついこの前まで、日向の地に君臨していた義祐も、寒さと飢えに震えながらこの寒村で天正6年の元旦を迎えたのでした。すぐには何たる返事もなく、待つこと13日、天正6年正月七日、ようやく大友宗麟の迎えの兵が来て、義祐とその子ら(祐平・義賢・義勝)を迎えに来たことを告げました。。義祐父子は手を取り合って喜び合い、五ヶ所を通って大野郡野津院寺小路村の光明寺に逗留したのでした。

浅学菲才

工業港入り口
河内の宿営地の案内板
工業港入り口
目標になる消防倉庫
工業港入り口
登り道、ここは上ってはいけません。
工業港入り口
この突き当たり付近でしょうか。地元の人も知らないのです。

行きかた 高千穂町から国道325号線を高森町方面へ。突き当りの田原で、左折して熊本方面に向かうと、町並みが切れたあたりの右側に案内板があります。私は方角がわからず写真にある坂道を上ってしまいました。途中から草茫々の山道になります。Uターン出来ません。これが独学史跡取材の定めとはいえ、つらいですね。皆さんもご注意を!。

大友宗麟の背景

このときの宗麟は九州の北半を平定し、南半の雄、島津氏と覇権を争っていた時期です。その中間にある日向の領主義祐を助け、その復帰を理由に南九州の攻略を狙っていました。宗麟は大野郡野津院寺小路村光明寺に一行を迎え入れ、野津院300町を給したといいます。宗麟は天正六年三月十八日に挙兵し、まず縣の土持氏を倒すべく本隊を延岡方面に向けます。同時に支隊は五ヶ所村から河内村を経て、田原村と上野村の境にあった玄武(げんぶ)城を攻め落として延岡に向かいました。

関連サイト

botan 伊藤義祐の豊後落ち

伊藤家にとって「一敗地にまみれる」木崎原の合戦から、伊藤祐平が豊臣秀吉の家臣となって飫肥藩を治めるようになるまでの歴史です。

編集後記

伝承によると、義祐一行を逃すために、沢山の武人が亡くなりました。伊藤義祐を思うとき、いったい何でこれほどの名家が、簡単に滅びたのかわからなくなります。また戦国時代に、戦いもせずして逃げ出す武将ありや?。そのあまりのもろさに腹立たしくもあります。

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