藤江監物の墓と牢跡

舟の尾の地図

藤江監物の墓と牢跡:(宮崎県西臼杵郡日之影町舟の尾)

取材をしていると、書きたくない内容がある。今回がそれだ。他人事ながら腹が立ってきて過激になるので、何度もホゴにする。

今は静かな山岳の農村地帯。300年ほど前、ここは悲運まれなき歴史の舞台であった。親子共々この狭い敷地の、暗い牢獄に閉じこまれ、長男はわずか半年で命を落とし、父はあまりの無惨に断食をし、憤死している。この時の監物の心情はいかばかりであったろう。まったくの濡れ衣で大事な長男を亡くした。

人の妬みの腹立たしさ。憤慨、無念、その心は察するに余りある。断食だけが、逆臣の饒舌に乗せられた、主君の誤った判断を諌める唯一の方法であったに違いない。

監物父子の牢跡は、延岡から遠く離れた山奥にある。今でこそ簡単に行ける場所であるが、当時何故に辺境の舟の尾に牢獄を造らなければならなかったのか。 理由は一つ。人心が監物方に有ったのであろう。投獄の影響を恐れた讒言者達は、あえて遠くの舟の尾に流し、必要以上の警備陣を敷いたのに違いない。

それにしても、藤江監物の墓地という場所は多い。舟の尾の牢跡と墓地は僅か300mくらいしか離れていない。また墓の周囲には幾つかの墓石が散在している。もともと墓地であったに違いない。 当時の習いからして、獄死した反逆者(濡れ衣だがそうであった)は、手のかからない近くの墓地に埋められたであろう。としたら、やはりこの墓地が最初の埋葬場所の可能性が大きい。とするなら、幾年かの後、無実が証明された後、再び掘り起こされて埋葬し直され、その時分骨・分霊されたと考えるべきではないだろうか。

工業港入り口
藤江監物父子の墓の案内板。
工業港入り口
墓地の入り口。
工業港入り口
父子の眠る墓地。
工業港入り口
墓石
工業港入り口
墓石(削り取られている)
工業港入り口
従五位受勲
工業港入り口
周辺に散在する墓石
工業港入り口
牢跡の説明
工業港入り口
牢跡
工業港入り口
牢跡。
工業港入り口
藤江監物父子終焉の地慰霊碑。
工業港入り口
横から見た牢跡

yahoo地図 延岡市から国道218号線を高千穂に向かう。八戸を過ぎ、暫らく行くと右手に案内板がたくさん出ているのですぐわかる(食堂の前)。そこを右折、山道を入ってゆくと道は二つに分かれるが、左に行かず、そのまま真っ直ぐ急な坂道を登って行く。この辺は結構ややこしいのですよ。30mくらい登ると突き当りを右折。10mくらいのところにあります。

■監物牢跡

土地の言葉で牢屋(ずや)という新牢は楠木の生木で造られ、その異臭と梅雨時の虫や湿気に苦しめられた。 着る物も無く、食べる物とて少なく、殺すための牢獄だったのであろう。

享保16年(1731)3月
監物(45歳)は、長男図書(24歳)、次男多治見(21歳)、三男右膳と共に、召し捕らえられ舟の尾代官所の新牢に投獄された。
同年8月1日
生来体の弱かった図書が病死。
同8月26日
監物はこの無惨に激怒して断食を続けて牢死。

■藤江監物の墓

(向かって左が監物、右が図書といわれる)

親子二人のこの墓は、参拝者がお守りや家畜の護符として削り取るために、文字はすっかり消えている。これで三基目という。旧暦8月27日の命日には、延岡地区の人々を中心に一日中参拝者が絶えない。

  • 境内には延岡城下の豪商岩見屋が寄進した手洗鉢と寄進者不明の石灯籠がある。
  • 藤江監物の牢死直後、延岡城下では、反対派の重役の家によなよな監物の亡霊が現れる騒ぎとなった。

関連サイト

botan 藤江監物疑獄事件の真相

江戸時代中期の思想家で明治維新の先駆者であるが、各地を遊歴し多くの日記調の紀行文を残している。

botan 岩熊井堰

五ケ瀬川に完成した岩熊井堰の様子です。

藤江監物の墓所

ここ以外で藤江監物を祀っている場所です。

botan 昌竜寺

真向かいに見える丘の上の寺です。

botan 本東寺

土持氏の松尾城跡入り口の寺です。墓地に墓が祀られています。

編集後記

この地域はHP作成の最初頃、訪れた地ですが、なかなかここが解からず困ったことを覚えています。解かってしまえば実に簡単に来れるのですが、ルートがたくさんあってわかりづらいところもあります。この地図のように行くと一番わかりやすいです。

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