二見家墓地

去川関所御定番二見家墓地の地図

去川関所御定番二見家墓地:(宮崎市高岡町去川)

今から430年ほど前の永禄年間(1558〜1570年)、伊勢国の国主、佐々木義秀の家臣であった伊勢二見ヶ浦の城主二見岩見守久信は織田信長に攻められ、薩摩の蒲生郷に逃れ移りました。天正年間の中頃(1582年頃)島津氏の勢いは大変強く、第16代島津義久は、近隣諸国をことごとく討ち従えていました。義久は、国境の防備を固めるために、関所をここ去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。以来二見家は、11代に至るまで御定番を勤めましたが、廃藩置県(1870年)のために、関所も御定番も廃せられてしまいました。

今から430年ほど前の永禄年間(1558〜1570年)、伊勢国の国主、佐々木義秀の家臣であった伊勢二見ヶ浦の城主二見岩見守久信は織田信長に攻められ、薩摩の蒲生郷に逃れ移りました。天正年間の中頃(1582年頃)島津氏の勢いは大変強く、第16代島津義久は、近隣諸国をことごとく討ち従えていました。義久は、国境の防備を固めるために、関所をここ去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。以来二見家は、11代に至るまで御定番を勤めましたが、廃藩置県(1870年)のために、関所も御定番も廃せられてしまいました。

引用:宮崎市教育委員会

この奥の道
この奥の道をさらに10mほど上がった高台にある
墓石郡標柱
去川関所御定番二見家墓石郡標柱
案内板
案内板
数多くの墓石
数多くの墓石が並んでいる
奥の墓石群
奥の墓石群
入り口方面
入り口方面から
案内板内容
案内板内容
墓石の配置
墓石の配置

行きかた 国道10号線の去川の関所の標識から20mほどバック。小川を渡って、小学校沿いに山手に進むと、墓地がありますが、そこの右側を10mほど上がった高台にあります。\

記念碑

この常夜灯は見ごたえあります。

編集後記

小川のほとりの高台に、いかにも古そうな墓石群が並んでいます。こういった取材が一番困りますね。書きようがありません。だったら書かねばいいではないかと言われそうですが、データベース上そういうわけにも行きません。

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