Back Topへ

方財町と切れ港

方財地図

方財町は延岡港の入り口に位置します。五ケ瀬川の河口に形成された砂州ですから、標高は10mをわずかに超えるほど、それでも市街地より高く水害には見舞われません。一周するにも時間はかからない小さな町ですが、家はひしめき、漁業を中心に栄えています。戦時中の「松やに」の採取や製塩の燃料に使われ、松の巨木は消えましたが、それでも外海沿いに松林が残っています。最近とみに海岸部は公園化され、護岸工事も行われ、市民の憩いの広場になっています。 昭和42年(1967)、鷺島への鷺島橋が完成するまで、方財への道は大瀬川右岸を海沿いに毛なし浜を回っていくか、又は船便だけでした。今は大瀬川沿いに農地の横を一直線に走る道路が印象的です。
 

拡大
毛なし浜
拡大
方財締切堤
拡大
農地の横の道路
拡大
海岸沿いの民家
拡大
松林と海岸道路
拡大
整理された護岸
拡大
方財締切堤の水門
拡大
昔の船着場はどこかな?
◇六軒かまど:
 六家族の漁師が住み着いたのが、方財の始まりだという言い伝えです。東側は日向灘に面し、かっては漁業が中心の集落でした。漁法や漁具などは四国から影響を受けたといいます。全体が砂地の方財では、米を作る水田はありませんが、それ以外の農作物はすぐ目の前の鷺島で作れました。魚は豊富で、海辺は貝で溢れ、打ち上げられる流木は、貴重な燃料や家屋の修理にも使用されていました。「方財島」は「宝来島」でもあったのです。
◇昔の交通:
 延岡の町に行くときは、船で五ケ瀬川を上がるか、十貫の船着場を利用しました。明治・大正までは櫓や帆掛け舟でしたが、昭和に入ると発動機、俗にいうポンポン船に変わり、十貫への渡しが主になりました。町の西側は岸壁で漁業施設や船の係留場所になっていますが、その南側に当時の船着場の跡が残されています。町の学校への通学は、毛なしの浜から西の大瀬橋を目指しますが道のりが遠く、十貫への渡し舟も利用したそうです。

<引用資料>:宮崎の街道・・・宮崎県教職員互助会。
Copyright©2005 lifeplan All rights reserved.
十貫(方財との重要な渡し場)
 かっての船着場の十貫は五ケ瀬川と祝子川の合流点に位置し、現在の昭和町の一部になります。河口に近い十貫は、川を利用する船運と、外洋への航路の拠点として、重要な位置にありました。魚の水揚げの船、方財や島野浦、北浦へ生活物資を輸送する船、など現在からは想像だにできない活気を呈していましたが、上流からの土砂の堆積で水深が浅くなるなどして、新たに開発された延岡港にその役をゆずり、昭和30年前後、船着場としての役を引退することになります。
十貫の昔の様子
命がけの切れ港
毛なし浜水害から延岡市街を守るためには、どうしても大瀬川の現在の海に面している部分(毛なし浜)を掘って水路を造り、そこから水を海に流す必要があった。でも水路を作れば方財が数ヶ月間孤立してしまうので、交渉がなかなかまとまらなかったようです。水路を切り落とす時は、命綱を腰にした人の一かき、二かきが、たちまち怒涛の流れに変わったようです。後に控えた人々は、間髪を入れずにその綱を引き寄せるという命がけの作業であった。今見てもわかるが、あそこに人力で水路を、短時間で造るということは、もはや神業に近いね。
畳堤・・・難航する交渉の間の緊急用堤防と考えられる。