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西南戦争の官軍墓地

官軍墓地

西南戦争のとき、県内各地で戦死した官軍兵士の墓地。迫田鉄五郎少佐以下282名の兵士が眠っています。 最後の激戦地となった和田越え、可愛嶽(えのだけ)の戦いで負傷した官軍兵士の多くは延岡港から船で細島に運ばれました。そのときに出来た官軍墓地(官修墓地)が本営近くの岡にあり、墓碑には、所属・氏名・出身地・年齢・地位・死亡地・死亡理由など各碑ごとにわかる範囲で詳細に記載してあります。このように埋葬してある墓地は少ないかも知れませんね。また、手入れも大変良く行き届き、100年経ったとは思え思えないほどです。


きれいに整頓された墓全体 官軍墓地全体
迫田鉄五郎少佐の墓と慰霊碑
迫田鉄五郎少佐の墓と慰霊碑
迫田鉄五郎少佐の墓、写真は記念館にある。
迫田鉄五郎少佐の墓
墓石の刻印
墓石の刻印
警察官も参加していたのか
警察官の墓
薩摩藩と同郷
迫田鉄五郎少佐の墓裏面
墓石の刻印
墓石の刻印
墓石の刻印
海岸全景
*しかし、近辺に薩摩軍の墓は何処にも無い。政策の違いだけで、すべて国家のために良かれと起こった西南戦争。西郷隆盛と迫田少佐は同郷の士。国家というものの何ともいやな一面を感じるのは私だけだろうか。
■282名だが墓碑は256基、その差はその中に単に「人夫26名の墓」と彫られたものがあるからだ。また九州出身者もいるが、その数は20名足らずで、山口、広島、和歌山、三重、石川などの出身者が多く、遠くは青森、岩手、山形、新潟の県名も見える。
迫田少佐 ■迫田少佐は、東京鎮台歩兵第一連隊第一大隊長として、野津鎮雄少将の第一旅団に属していましたが、8月15日、可愛岳を突破しようとした薩軍が、可愛岳の西南方を守っていた官軍にいきなり襲いかかりました。その時に、流弾を眉間に受けて戦士したものです。弾丸は脳髄の中に止まっていました。
←官軍第一連隊が駐屯していた付近です。

細島資料館(迫田少佐写真があります。)


西南の役とは

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