東方大丸太鼓橋

東方大丸太鼓橋の地図

照葉(てるは)大吊橋 :(宮崎県東諸県郡綾町南俣大口5691−1)

東方大丸太鼓橋は、浜の瀬川にかかる石造りのアーチ橋で、大丸地区の新田開発にあたった加治木の豪商、森山新造が私財を投じて建設した、宮崎県内に現存する石橋としては最古のものです。

江戸時代の終わりの弘化四(1847)年に完成しました。長さ約31,5m、幅約3m、高さ約14mのこの橋は、水路部分を切石積みで全体的には、不整形石の乱積みで造られ、橋の横断面は上から下にかけて広がる台形状をなしています。

引用:小林市教育委員会

工業港入り口
東方大丸太鼓橋標柱。この先は入れません。
工業港入り口
現在の橋から見た太鼓橋。このようにくっついています。
工業港入り口
太鼓橋の上流、結構急流です。
工業港入り口
このような川です。注意!下の土手は滑ります。
工業港入り口
下から見た太鼓橋
工業港入り口
下から見た太鼓橋
工業港入り口
下から見た太鼓橋、滝は余った水でしょうか。
工業港入り口
太鼓橋の設計図?

行きかた 須木に抜ける国道265号線から左に入りますが、私はグルッと遠回りをして、三宮峡の方から行きました。東方地区体育館の前を通り(右に行けば三之宮峡)、橋を渡って突き当たりを左折、村の中を通って少し行くと、左に折れる道があります。橋の少し手前の道路脇に車を止めて、左に下りれば橋の下に行けますが、天気によってはぬかるみのため、長靴が必要です。

浜ノ瀬川の東岸にあたる東方、つまり昔の東方村には田畑が多くありましたが、水利の便が悪かったので、干害に悩んでいました。浜ノ瀬川の西岸には猿ノ宮溝という用水路が有りましたが、この溝から水をこちらの岸に引くためには川を渡さねばなりません。そこで一計を案じ、大水があっても橋が流されないようにしようというので、両岸から石垣を積み上げていって中央でつなぎ、橋げたの無い橋、橋の底に丸い穴をあけた橋を作って川をまたぎ、橋の上に幅6尺の水道を造り、これに浜ノ瀬川の西岸の猿ノ溝の水を引いて、用水を渡したのです。それまで木像の樋で水を引いていたため、この橋の開通によって大丸新田の用水と交通の便は画期的に良くなりました。形が太鼓に似ているというので、世の人が太鼓橋と名付けました。

その後森山は、大丸開田や鹿児島藩の財政再建に貢献した功績によって、武士に取り立てられ、西郷隆盛、大久保利通など、幕末に活躍した多くの鹿児島藩士を資金面で助けました。しかし彼は、当時の藩主島津忠義の実父、島津久光の命にそむいて、西郷や村田新八とともに大阪に向かった事が問題となり、また息子、新五左衛門が寺田屋騒動に関わって自害したことを知り、藩の処分が決まらないまま、文久二(1862)年に自害しています。

こうした石積みの方法は、同じ頃に鹿児島市の甲突川に架けられた五つの石橋(新上橋・西田橋)などにも見られ、当時のアーチ式石橋を研究する上で貴重な資料です。

また橋の北側にはこの橋に使われた石を取ったと思われる石切り場跡があり、壁面には「弘化二」と彫られた文字が今も残っていて、小林や南九州の開拓の歴史を知る上でも貴重な資料です。

関連サイト

同じ工法の鹿児島県の新上橋です。

botan 西田橋

同じ工法の鹿児島県の西田橋です。


記念碑

石橋の拡大写真です。サイズが大きいですよ。140kb。いずれにしても今は雑草に埋もれ、よくわかりません。

編集後記

これは、熊本県の通潤橋みたいに水路を通す橋ですが、一時は人も通行していたみたいですね。2,3日続いた雨上がりという事もありましたが、水量も多く、色もこのようにクリーム色で、暴れ川という印象でした。下に下りてゆく時、ぬかるみのため、長靴を履きましたが、下の土手は一歩足を滑らせたら川の中、行かない方が無難です。

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