西南戦争の弾痕石

弾痕石の地図

西南戦争の弾痕石:(宮崎県西臼杵郡日之影町大人)

何でこんな場所に弾痕石があるのだろう。中途半端な山腹の途中に、陣を張るにしては狭い平地に、西南戦争の弾痕石はある。新規に農民を徴兵し、銃の訓練でもした跡であろうか。無駄玉を撃つ余裕は西郷軍にはないはずだから、もしかしたら政府軍の弾痕かも知れない。いろいろと想像するがあくまで私の推論である。わかりませ〜ん。

西南の役とは

工業港入り口
弾痕石の入り口。この左手の小丘です。
入り口
入り口は、見た目ほど入りにくくはありません。
このような小道
このような小道です。1分程。
石の全体像
石の全体像です。
弾の跡の拡大写真
弾の跡の拡大写真。
壊れかけ
壊れかけているのでしょう。補強してあります。
ここまで入り込むもの
昔の鉄砲でよくここまで入り込むものですね。
裏側
私は何故か裏側を見る癖があります。

三田井で敗れた西郷軍は西臼杵一帯で陣を構えた。

5月14日、高城率いる正義隊など6箇中隊は延岡街道鏡山の熊本鎮台警備隊を襲撃し、追撃して馬見原、川口に進出した。熊本鎮台部隊が5月22日に馬見原から竹田方面に転進すると、この方面を担任することになった第一旅団は5月25日、折原を攻撃し、遂に三田井を占領した。しかし、三田井を占領された薩軍は6月1日、日影川の線を占領し、官軍進撃を阻止した。こうして苦戦・後退しながらも、薩軍は8月まで延岡方面への官軍の進出を阻止しつづけた。

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この西臼杵一帯には、いろんな所に塹壕の跡が残っている。かなりの激戦地であったらしい。丁度梅雨時で五ヶ瀬川や支流が増水し、渡河に苦労したらしく、戦いは明治10年5月から8月までの三ヶ月間にも及んでいる。川向いの尾根からドカーン、ドカーンと大砲を撃ちあう以外、戦うすべが無かったのだろう。

編集後記

ここは大人地区の取材で何度か訪れた場所です。残念ながらこれまで大人地区の甲斐宗摂に気を取られ、ここには気づきませんでした。こんなところにも西南戦争の跡があるのですね。しかし何度もいいますが、この地域の人々には頭が下がります。歴史を重んじ、史跡を大事にしておられる姿勢が、いたるところに見受けられ、町を歩いているだけで新しい発見がありそうです。

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