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台雲寺

台雲寺跡地図

台雲寺(だいうんじ)は曹洞宗総持寺末で今山南麓にある。縣領主土持氏の時代、養老三年、(719)蓬莱山・金仙寺が笑領和尚によって創建された。天正15年、高橋元種が延岡入りし、大円山西林寺と改称、また元和二年有馬直純は西林寺を廃寺にし、台雲寺を建立、萬歳山の山号をつけ、菩提寺とし寺領百石を寄進した。元禄5年、有馬氏の転封にともない、越後に移転しましたが生徳2年(1712)延岡入りした牧野氏が跡地に再興し、元文3年(1738)萬寿山・台雲寺と改称した。歳月を重ねるうち寺運の衰えたときも有ったが、延享四年(1747)に内藤氏が領主となり、台雲寺は特別の支持を受け、寺運は隆盛を極め東西両臼杵郡内48カ寺を支配した。
昔の台雲寺の絵・・・昔の台雲寺の絵です。
 

神社正面
神社正面
仏足石のお堂
仏足石のお堂
仏足石の標識
仏足石の標識
山門下社
山門下の扁額
お堂の中は暗くて
お堂の中を盗み見
懐かしい井戸ポンプ
なつかしい井戸のポンプ
内藤家の墓所
広い内藤家の墓所
この意味知ってる?
杓底一殘水の碑
うまく撮れなかった
石像の仁王像(向かって右)
うまく撮れなかった
石像の仁王像(向かって左)
持って帰んなよな〜
六地蔵石幢(参道左側墓地)
岩熊井堰の完成者
江尻喜多右衛門の墓
何が入っているのかな
お堂
なつかしき城山の鐘鳴りいでぬをさなかりし日聞きしごとくに
若山牧水歌碑
本当に変わった墓だ
露傘の墓
建築用語はすぐ忘れる。え〜と絵馬?
山門上絵馬
■佐久間露傘( ろさん)の墓:
「ひたひたやと僧徒のぼるや台雲寺」と詠んだ露傘の墓は、正方形の台石に球体の石を据えた風変わりな墓(境内墓地)である。
■延岡藩最後の藩主内藤挙(まさたか)夫妻の墓(レンガ塀に囲まれた広い墓地)
■江尻喜多右衛門の墓:岩熊井堰を完成させた。
■佛足石堂:
佛祖・釈迦の足型を彫刻したもので県内ではここしか見られない。文政12年(1829)後藤新十朗が寄進。彫刻は天下の佐藤勇吉・熊吉。佛足石と歌碑がある。薬師寺の模倣と言われている。
■山門:「萬歳山」の扁額が掲げてある。文久三年(1863)4月3日の建立。
■六地蔵石幢(せきとう):
台雲寺墓地の山門南下、参道沿いにある。享保十一年(1726)五月二十日の建立。 塔身が細くなっているのは、子供の「おでき」に六地蔵の石の粉をつけるとひどくならないと言うので削って持って帰るからとか。
■若山牧水歌碑:
第29代住職・長田観禅師は、歌人若山牧水の母、マキの兄、昭和2年(1927)の七月、若山牧水夫妻が来訪。「なつかしき城山の鐘鳴りいでぬをさなかりし日聞きしごとくに」の詠草を残した。
■穂鷹亭々の墓:「にくからぬははの心よ散る桜」の時世の句を刻んである。
■杓底一殘水の碑
道元禅師の教えで、「柄杓の底のわずかな水も、元の流れに戻せば、その恩恵を被る人は限りない。」ウ〜ムなるほど!と頷かせる言葉ではないか。
■後藤勇吉の墓:空の先駆者

 
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botan仏足石歌体
台雲寺の仏足石は、長さが1.4m、幅63cm、厚みが13cm。右足の部分は長年雨露にさらされていたため、風化して消え、左足もかかと部が見えなくなっている。仏足跡歌碑は、薬師寺のものは21首、台雲寺のものは19首刻まれている。和歌が5.7.5.7.7の31字であるのに対して、同歌は最後に七字を加え、38字であって、仏足石歌体と言われる。 「しゃかのみあと、いわにうつしおき、めぐりうやまいまつり、わがよはおえむ、このよはおえむ」 という歌もある。