天野屋栄五郎の墓

天野屋栄五郎の墓の場所地図

天野屋栄五郎の墓 :(宮崎県延岡市古江1928)

天野屋栄五郎は、1792(寛政4)年、年貢減免を訴えて処刑された古江騒動の指導者ということになっている。今は延岡市役所支所の真ん前に、お堂と墓が祀られている。

拡大 天野神社:天野屋栄五郎の墓の北方300mの国道388号線西側の村落のはずれに天野権現として祀られた天野神社がある。
お堂
お堂
お堂裏の墓石
お堂裏の墓石
手水舎
手水舎
天野屋栄五郎墓石
天野屋栄五郎墓石

北浦の義人天野栄五郎を祀る天野霊守廟がある。栄五郎は代々山産物を商う豪商であった。その頃南北浦には太田尾源太兵衛という大庄屋がいたが、源太兵衛は年貢の取立てに苦しみ、栄五郎にその立替を申し入れた。

五郎は、毎年貧農のために年貢の立替を続けていたが、その年の延岡藩の割付は特別に厳しかった。そこで栄五郎は、源太兵衛に年貢割付の再興を願い出るように相談した。

ところが延岡藩に出頭した源太兵衛は、役人に贈賄して、一揆まがいの罪を栄五郎にすりかえてしまったのである。おまけに栄五郎には、山伏の呪術をかけて口が利けないようにしたからたまらない。栄五郎は徒党を組んだ無実の罪をかぶって、延岡の平原の処刑場で打ち首になり、三日間のさらし首になった。

その時、親戚の兵六という男が栄五郎の首を盗んで夕方には北浦に帰ってきた。さてその夜のこと、大庄屋源太兵衛の家に首の無い栄五郎の亡霊が現れ、「源太兵衛め、貴様の悪事を呪い続けてくれるぞ」と座敷中を駆け回った。それからまもなく源太兵衛は熱病にかかり、一家こぞってたたりに苦しみ、没落したと言われる。

編集後記

人間界は昔からだね!

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