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山陰百姓一揆

山陰はかって延岡藩(藩主有馬氏)領だったが、農民に重税を課し、そのうえ3年続きの凶作にも減税せず、延岡藩臼杵郡代梶田十郎左衛門、代官大崎久左衛門らが厳しい取立てをした。元禄3年(1690)9月19日、ついに農民1422人の大集団は、村を捨て領外に禁制の逃散をはかった。牧水公園の東側にそびえる西林岳の麓に「百姓逃散の道」があり、この道から都農町の股猪野(またいの)へと逃げた。薩摩藩に移住するつもりだったが、途中、股猪野で高鍋藩に全員抑留された。たびたび延岡藩から村へ帰るように説得されたが応じなかった。結局、翌1691(元禄4)年6月、江戸評定所で百姓代表21名は郡代・代官と対決させられた。その結果、減税は成功したものの百姓側から磔2名、打首12名、遠島(八丈島)7名という犠牲を出した。また郡代・代官は60国お構いの追放、藩主有馬清純は政道不行届として越後国(現新潟県)糸魚川に転封となった。そして山陰村、坪谷村、下三ヶ村は天領となった。以来当地の農民は犠牲者の霊を慰めるために朝参(ちょうさん)供養(遺族たちが人目を忍んで朝早く参り冥福を祈ったからとか、逃散の字をはばかって朝参としたとかいわれる)といって、毎年旧盆(8月17日)に法会を営んできた。

山陰から約2km、国道327号線の右手に成願寺(曹洞宗)がある。この境内には1690(元禄3)年、山陰騒動(山陰百姓一揆)で犠牲になった21人の義民の供養塔(1811<文化2>年に当時の山陰村大庄屋寺原和右衛門と成願寺8世の住職が立てた)と1969(昭和44)・1989(平成元)年に東郷町が建てた記念碑がある

宮崎の街道(教職員互助会)

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