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和田越えの戦い(西南の役)

和田越えというのは、延岡市の東海にある丘地で、可愛岳(えのだけ)の南にある長尾山から、北川の南岸を小梓和田峠、無鹿、友内山というように長い山丘が西から東に伸びていますが、その一角で和田という部落に越える峠です。

熊本城の攻囲に失敗した西郷隆盛の率いる薩軍は、日薩隅の三州に勢力を張って抗戦する策を立て、人吉から宮崎、高鍋、都農、富高を経て延岡に集結しましたが、宮崎方面から進んできた山縣有朋中将の率いる本隊と、高千穂から延岡に進んできた熊本鎮台兵、更に大分から南下してきた川路少将の率いる警視庁隊に三方から包囲されました。そこでこの戦争の雌雄を決する大会戦を試みたのが和田越えの合戦です。明治10年の8月15日、薩軍は長尾山に砲台を築いた辺見十郎太の雷撃隊を右翼に、友内山の奇兵隊を左翼に、和田越えを中心にして左右に連なる山丘に約6千の兵を置き、西郷は自ら和田越えにあって、桐野利明以下を従えて兵を指揮しました。これに対し官軍は、その南方1kmにある樫山の丘で山縣中将が全軍を指揮し、和田越えの正面には山田顕義少将の指揮する別働隊第二旅団、粟野名には東伏見宮の率いる新撰旅団をはじめ約5万の兵を持ち、東海の沖には軍艦二隻が艦砲射撃によって陸軍を援護しました。

この日は、これまで山間部の残敵掃討を目的としたため、あまりはなばなしい戦果を上げ得なかった山田顕義少将が進んで正面の攻撃を買って出ましたが、和田越えの下の水田は有名なぬかり田でありましたから、気負いたって進み出た官軍の兵は、たちまちぬかり田に足を取られ、動けなくなりました。これを見た薩軍は、かねてから用意していたムシロを投げ込みながら、桐野利秋が真っ先に白刃をかざして飛鳥のように坂を駆け降りて敵陣に切り込みました。この勢いに押されて官軍は樫山付近まで追い詰められ、あわや総崩れになると思われましたが、かろうじて踏みとどまった一隊が横から薩軍を銃撃しましたので、すでに銃弾の尽きていた薩軍は追撃を阻まれ、その間に反撃してきた新手の大軍に押され、さらに海軍は東海港に陸戦隊をを上陸させて、北川の北岸をさかのぼって和田越えの薩軍の背後に廻りました。そこで薩軍は総崩れになり、小梓から長尾山に登り、更に可愛岳からその麓の日向長井に集結したのでした。西郷はこれより少し早く、籠で北川に沿ってさかのぼり、俵野の民家の児玉熊治の家に入り、やがて18日の未明に可愛岳突破の壮挙を行ったのですが、和田越えの合戦はこの戦争の最後の決戦で、この戦争中で西郷隆盛が自ら一戦に立って兵を指揮したのは、熊本城攻撃の時とこことの二ヶ所しか無かった。

引用:日向ものしり帳(石川垣太郎)

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