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豪族土持氏の興亡

古代道 律令に定められた交通制度として駅制(うまやのせい)があります。これが全国的に実施されたのは奈良時代からといわれています。これは主として役人と役所のために中央と地方を結びつけておくものであり、地方の税として稲を都に運搬するものでした。この時代の税は官稲(かんとう)といって、稲で納められました。

宇佐八幡宮荘園の荘官であった土持氏は、鎌倉時代に入ると、多くの荘園の地頭を務めると共に、1187年(文治三年)にはそれまで古代日向を代表してきた豪族日下部氏から在国司職を引き継ぐ。それ以降、日向国内に居住する最大の勢力に成長したと伝えられる。全盛期は平安末期、八条女院領など膨大な荘園を領有した土持太郎宣綱の頃で以来、土持七頭:縣(延岡)、財部(高鍋)、清水(西都)、大塚(宮崎)、瓜生野(宮崎)、都於郡(西都)、飫肥(日南)と称され日向各地に勢力を張ります。しかし、関東御家人の伊藤氏が、土持氏の所領に割り込む形で配置され、その後、室町時代の半ば(1457年)財部(現高鍋)土持氏が勢力拡大の著しい都於郡伊藤氏との戦いで敗れ、このことから日向の国南部の土持一族は衰退していきます。ただ延岡を本拠とする県土持氏は伊藤氏や豊後の大友氏、そして薩摩島津氏との勢力均衡を保ち、日向北部の最大勢力として、一族を統率してきました。松尾城も都於郡伊藤氏に備えるために1447年(文安4)に土持宣綱によって築かれ、土持氏の本城となりました。以後、全繁・常綱・親佐・親成の六代にわたって居住しています。伊藤氏は1577年(天正5年)島津氏に敗れ、豊後に逃れます。そして翌年、大友宗麟が日向の国に南下し、島津氏を頼っていた土持氏の松尾城を攻撃、落城させました。松尾城落城のとき、城主土持親成は行縢山に捕らえられて自刃し、養子土持高信は延岡市妙町で自刃したと伝えられる。 その後土持一族や高橋元種が居住しますが、1603年(慶長8年)延岡城の完成で、松尾城は廃城なり、標高60メートルの台地を三つに区割りし、五ケ瀬川を外堀とした中世の城でしたが、今もその面影を残しています。

土持神社

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