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美々津の町並み「ツキヌケ」

二百年以前よりの家が現存しているのであるから、それ以前からと思われるが、藩の施政と住民の自治精神によって、町内を区画整理して、「ツキヌケ」と呼ばれる大通りが数箇所に設けられ、これが広場のように幅の10m以上もある大きな道路をなし、その中には井戸も設置されていた。南北に長い美々津の街は、西の小高いところに神社・寺院・藩侯のお屋敷があり、次に上町・新町、次に中町・崎田町・松原、次に下町と西より東に順次南北に横たわり、そしてその町並みを西から東に「ツキヌケ」が通っていた。それが約100mの間隔で四箇所。なおその広い道路の中央に、細長く宅地を構える計画が出来、有力者にして希望者には、そこに宅地を賜り、土蔵造りの住宅を作ることを許された。だから「ツキヌケ」は家の左も右も人の通行する道路になっていた。

美々津の町並み「土蔵造り」

土蔵造りは瓦葺の建物の外部をシックイで塗り固め、出入り口や窓などの、外部に面する側の建具は、シックイ塗りの厚い重い土戸や銅扉で火急のときに備えてあり、道路に面した塀はやはり練塀や石であった。日本風の焼けない建物だが、その時代においての住宅、衣服、食器、その他、封建の世代の厳しい習慣の中にあっては、容易ならざることであったろうが、代々の藩主の理解と善政、それに住民の努力によって、ツキヌケ及び土蔵が町内に普及していったのである。失火も度々あったが、「ツキヌケ」叉は土蔵造りの家まで来て火はとまり、「ツキヌケ」を越えて次に移ることは無かった。そんため火災も大火にならず、一小区域で収まったのである。幾星霜を経た古い家が現存して、秋月公の善政の跡を物語っている。かくして町民の自治精神と相まって、防火市街が出来上がり、美々津川の悠久なる流れと共にこの街が栄えてきた最大の原因である。

引用:美々津郷土史

美々津

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