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二つあった天孫降臨の地

  アマテラスオオミノカミの孫、ニニギノミコトが日向の地に天下る天孫降臨の神話は、日向風土記逸文の中には、臼杵郡知鋪郷(ちほのさと)のこととして次のように記されている。
ニニギノミコトが日向の高千穂の二上(ふたかみ)の峰に天下られた。時に空暗く、夜だか昼だかわからず、人々は道を失い、物の色もわかち難かった。ここに住民土ぐもがおり、名を「大はし」「小はし」といった。二人がニニギノミコトにいうには、「ミコトのお手をもって、稲千穂を抜いてモミとなし、四方に投げちらされるならば、必ず明るくなるでしょう」と。ミコトは稲を抜いてモミにして投げられると、たちまち空が晴れて日が照ってきた。そういうわけで「高千穂の二上の峰」というのである。後世の人が高千穂を改めて智鋪(前には「知」とある)と名付けた。風土記は中央政府の命によって、諸国の地名の由来などを記したものだが、以上の一文が、はたしていつ頃のものかは簡単には決められない。だいたい8世紀(奈良時代)のものだろうとされている。とすれば、当時の日向にこのような言い伝えがあったという可能性が生まれてくる。県北の高千穂町の高原に立って山々を眺めるとき、双峰の美しい山が目に付く。これを二上山と呼んで、土地の人々はこの双峰の山に親愛のまなざしをおくるのである。しかし、天孫降臨の地は、宮崎。鹿児島県境にもう一つある。それは霧島山の高千穂峰(1573m)で、それぞれを支持する人々の間に論争が行われたこともある。この論争は古くからあったようで、江戸中期の国学者本居宣長も、この著古事記伝でつぎのように言っている。
「臼杵郡のも霧島山も、共にその山であろう。天孫がまず初めに降りついたのは、臼杵郡の高千穂で、それより霧島山に移られたのであろう。神代の高千穂といった山は、この二処であったのを、これもかれも同じ名であったから、昔から混同して、一つの山のように語り伝えてきて、古事記にも、日本書紀にも、そのように記されてのであろう。」宣長は折衷説を取ったのであろうか。県北の高千穂神社には、老杉が亭々とそびえているが、この地方の村々では、毎年12月から1月にかけて、神話を取り入れた夜神楽33番が徹夜で行われる。神代さながらの舞ぶり、その装い、神楽せり唄など、興味が尽きない。「日向路」平田正一 より。

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