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田代神社の伝説と由来

今から970年も昔、(平安時代の中頃)粕野(現若宮)に大隈守(おおすみのかみ)という人がいて村を治めていた。この大隈守が飼っていた犬が、夜になると決まったように吠え続けるので、村人達は不思議に思い始めたが、気味が悪いといって誰も調べようとはしなかった。しかし大隈守は大変度胸のある人だったので、村人の止めるのも聞かず、犬の吠えているところに行き、「一体何に向かって吠えているのだろう。獣には人間が気づかないことに気づくという力があるというから、何か変わったことがきっとあるに違いない」と思いながら見ると、犬は田んぼの真ん中で南の方を向いて吠えていた。 「おかしなことがあるものだな」と大隈守はもっと側へ寄って、犬の吠える方向を探るように見ていると、暗闇の中にキラリと輝くものが見え、それはまぎれも無く権現山の山頂付近だった。犬はその光に向かって毎晩吠えていたのである。

「ううん、これは不思議だ。一体あの光は何だろう。よ〜し、山に登って調べてみよう」と、次の日の朝早く起きた大隈守は、矢元(やもと:弓矢で狩をする人達の頭)をしている峰の長之十を訪ね、その道案内を頼んだ。話を聞いた長之十は快く引き受けた。 大隈守は二人の息子を連れて行くことにし、4人は身支度を整えて権現山に向かった。その頃の権現山には今のような道はなく、獣道みたいな踏み分け道を、草を分け、木の枝を払い、木の根を伝い、岩場をよじ登って進んだ。あえぎあえぎやっと頂上の千本というところに登りついた4人は、早速付近をくまなく捜したが、それらしいものは何も見つからなかった。

大隈守は自分が昨夜見たものは本当だったのだろうかと、思ったがあきらめず、四人で懸命に木の根、草の根を分けるように探したが、何も見つからなかった。ついにあきらめて帰ろうとした時、息子の弟の方が突然狂ったように持っていた棒で地面を叩き始めた。三人が呆気にとられて見ていると、何と不思議なことに突然光るものが現れた。

大隈守は「やはり本当であったか」とそれを取り上げてみると、鏡のようにキラキラと輝く「鋤先(すきさき)」で「霧島六所大権現」という文字が刻まれていた。

大隈守は神官であるから「霧島六所大権現」というのは、日向の国に伝わる話の中の神様で、イザナギノミコト、イザナミノミコト、ニニギノミコト、コノハナサクヤヒメノミコト、ヒコホホデミノミコト、トヨタマビメノミコトの6柱の神様がお揃いでお出でになられたということがすぐわかった。

4人は、早速村に帰るとそのことを村人へ話し、「鋤先」を私たちの村を守ってくれる御神体として、御社を建てようと相談した。しかし、本式の神社を建てるのは、大変な準備が要るので、しばらくの間頂上に仮の御社を建ててお祭りすることにした。今の田代神社を「霧島六所大権現」というのはこのためと言われて言われ、また日陰山を権現山と呼ぶようになったのもこの時からといわれている。

権現山の頂上からは、日向の浜が良く見える。その頃、誰言うとはなしに、日向の浜を侍が白い馬に乗って通ると、権現様ににらみ落とされるという噂が広まっていた。仮の御社を建てお祭りしてから10年後の長元5年(1032)に、村人達は頂上から一段下がったところに本殿と拝殿を備えた本式のお社を建て、遷宮した。そのわけは、にらみ落とされては気の毒という心配りから、浜が見えないところに移したとも、お参りするのにあまりにも苦労があったからとも言われている。

村人達は、この神社をお祭りするために、神社の田んぼを三ヶ所選んで、上の宮田・中の宮田・下の宮田(現在下の宮田は名目だけしか残っていない)と呼び、毎年その田に五穀豊穣と村人達の無病息災を願い、秋には収穫に感謝するお祭りを始めた。現在の年の神神社のある所の田んぼが中の宮田といわれ、元は田植えの時の休憩所となる小屋があったそうだが、そこでお祭りが出来るようにと拝殿に建て替えたそうである。

この田植えについては次のような言い伝えがある。 ある年の7月7日、この地方は朝からひどい台風にみまわれた。そこで予定されていた宮田の田植えは延期することにした。村の人達はそれぞれ家にこもり、台風の被害を少しでも少なくしようと、自分のことに懸命であった。その時、田植え祭りを気にしていた村人の一人が、フト宮田の方を見ると、白い着物を着た大勢の人が嵐の中をもいとわず、並んでせっせと田植えをしている姿が見えた。「私たちがしないので、神様が御自分で田植えをしておられるのだ」と思ったその人は、急いでそのことを村人に告げてまわった。それは幻であったのかもしれない。しかし村人達は自分達の行いを恥じて、直ちに嵐をついて田植えをしたといわれている。それからというものは、7月7日の御田祭はどんなに悪い天気でも休まずに行われるようになったという。


田代神社にまつわる話はもう一つある。 この神社では年の晩に、一晩中神社におこもりする習わしがあった。明治8年のおこもりの時、不注意からお社が火事になり全焼してしまった。人々は大変なことをしでかしたと心から悔いながら、焼けたお社を片付けていた。すると灰の中から金色に光るものが出てきた。良く見るとまぎれもなく黄金の塊だった。またしてもこの不思議な出来事に人々は驚いた。この出来事は村人の信仰を一層強めることになった。早速焼けた場所に仮の御社を建て、その金塊を御神体としてお祭りした。この時、この金塊を移した長友種治という人は、重さが八百匁(3.2s)位あったと伝えている。

それから2年後に西南の役という戦いがあり、この田代も戦場になったので、神社へのお参りは出来なかった。次の年の明治11年に久しぶりに村人が神社にお参りに行ってみると、金塊は影も形も無く消えており、その代わりとでもいうように刀が一振り置かれていた。これは敗走の薩軍の兵士が権現山を尾根伝いに南下の途中、権現様のお社に泊まり、金塊を見つけ、持ち逃げでは申し訳ないと思い、刀を置いて持ち去ったのではないかと想像された。

御神体を失ったので、神社の世話をする社嘗という役の佐藤千代也という人と、村の戸長が相談して、一尺五寸(45cm)の杉の板に「田代神社」と書いてこれを御神体としてお祭りすることにした。これが現在でも御神体として祭られている。

その年の10月、元の御社の形式にならって、もう少し下げたところに御社を再建遷宮した。その御社が現在の権現山の中腹にある神社で、これで場所が3度変わったことになる。 明治13年3月には、上円野の人達が、直径一尺三寸(39cm)の大鏡を寄進して、これも合わせて御神体としてお祭りすることにした。

西郷村史


年乃神神社・・・田代神社の遥拝所があります。

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