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延岡藩主高橋氏

高橋氏紋

秀吉の島津征伐に従った功績で、縣庄(あがたのしょう)のほか、宮崎・高千穂・臼杵三城を拝領した高橋元種は、旧領筑前香春岳城から5万3000石で、県の松山城(延岡市南方)に移った。

それから4年後の天正19年、神孫と称して高橋氏に臣従しようとしなかった高千穂の三田井氏を滅ぼし、高千穂をその行政下に置いた。

その翌年の文禄2年には、豊臣秀吉の朝鮮出兵命令によって、元種は約800人の兵を率いて朝鮮に出陣した。

それから3年後の文禄4(1595)年には、高千穂の三田井氏攻めに際して、高橋氏に内通させた元三田井氏の主席家老、甲斐長門入道宗摂を、兵を派して攻め亡ぼし、高千穂を直接支配するようになったものの、なお各村の三田井氏の旧臣は残っていた。

翌慶長元年には、秀吉の二度目の朝鮮出兵があるが、この時も兵600人を率いて朝鮮に出兵し、翌年帰陣した。

高千穂地方は三田井氏の降伏と、甲斐宗摂誅罰によって平定したとはいうものの、三田井氏の旧臣の中には、河内の甲斐氏、岩戸の富高氏、宮水の甲斐氏など、なお高橋氏に臣従の意を示さない村々の城主があるので、元種は慶長4年、兵を高千穂に派遣して、これらの城を攻めさせ、全部を討伐して完全に高千穂を支配化にした。

慶長5年の関が原合戦には、石田三成から応援依頼を受け、大阪方として出兵し、大垣城を守ったが、大阪軍の形勢が不利になるや、早くも徳川方に降参したため、徳川氏の天下になっても本領はそのまま安堵となり、無事に帰国することが出来た。

慶長18(1613)年、新たに築城した延岡城が出来たので、松尾城から移り住んで、しばらく太平の日が続いた。元種が秀吉から縣の庄をもらった時は、36歳であったが、この頃42,3歳になっていた。

高橋元種は、三田井氏の家老甲斐宗摂を脅迫して、三田井氏を亡ぼし、その甲斐宗説まで生かしておくことに不安を感じて、これを殺し、さらに臣従しない三田井氏の旧臣たちを次々に攻め亡ぼしているので、血も涙も無い冷血漢のように思えるが、多くの三田井氏の旧臣達を召抱えて保護したものと思われる記録も現存する。また高橋元種は、高千穂の特殊地形を考慮して、高千穂行政のために上級家(伊藤喜右衛門400石)を高千穂代官として派遣しており、これが有馬氏の代になって、高千穂代官の元になったものである。人間的には人から頼まれたら、否とは言えない人の良い面もあったらしく、幕府から指名手配になっている犯人を、二回にわたって匿っておき、遂には高橋氏の命取りになったのが次の二つの事件であるといわれている。

猪熊大納言事件

慶長12(1607)年に宮中で、大納言近衛少将侍従猪熊教利を筆頭とする数人の公家達と、宮中の女官達の間の桃色事件が発覚して、後陽成天皇はこの処置を徳川家康に依頼された。

事件の一番の張本人、猪熊大納言は出奔して行方不明になっていたので、幕府は諸藩に命じて発見次第捕らえて、江戸に護送するように命じた。それから2年後の慶長14年、この猪熊大納言が延岡の高橋氏領内に隠れている事がわかった。

この猪熊大納言は一説によると、今の北方町八峡に、供の者と一緒に隠れていたが、供の阿少という者が猪熊に不平を持ち、高橋家に訴え出たので、高橋家では中村太郎右衛門を遣わして8月、これを逮捕して京都に身柄を送った。

幕府は10月17日、猪熊教利と兼康備後の二人を死罪、他の男子6人は遠島、典侍と局10人を伊豆大島に流す重罪とした。この事件を契機に幕府は朝廷の事に口ばしを入れる端緒を作ったものといわれるが、事実この事件によって天皇は急に譲位されたのである。

水間勘兵衛事件

それから4年後の慶長18年(1613)、水間勘兵衛事件という事件が起きた。これは「延陵世艦」の記事を要約すると、

「石見(いわみ)国津和野城、3万石の城主に坂崎出羽守(これから2年後の大阪城落城の際、この坂崎出羽守が家康の孫娘徳川千姫を猛火の中から救い出す物語は有名)の甥に水間勘兵衛という暴れ者がいた。ある時、勘兵衛は出羽守が幕府から預かっている侍を、ふとしたことから斬り殺して逃亡した。出羽守は幕府に届け出るとともに、手を尽くして勘兵衛を探し始めた。勘兵衛は逃げて従兄弟にあたる四国宇和島城主、富田信濃守知高を頼って宇和島に行き、かくまってもらった。しかし富田信濃守も長くは宇和島に隠しては置けないと思ったので、これを肥後の加藤清正の所に送り、庇護を依頼した。清正は危ないと思ってそのまま隣の日向延岡の高橋氏に送った。高橋氏は快くこれを引き受けて、高千穂にかくまった。

これは高橋元種の妻が、坂崎出羽守成政の妹で、宇和島城主の富田信濃守の妻も坂崎成政の妹で、高橋元種の妻の姉である。従って坂崎と富田と高橋は義兄弟ということになり、水間勘兵衛はその甥ということになるわけである。これまで高千穂の何処にかくまっていたのか不明だったが、最近発見された古文書より、その隠れ場所が鞍岡の原小野(はるおの)であったことがわかった。

勘兵衛は短気者であったと見えて、この鞍岡の隠れ家で、勘兵衛の身の回りを世話するために下男一人を付けてあったが、気に入らぬことがあって、その男を斬り殺してしまった。この男には息子が有って、父が殺された事が残念でたまらず、はるばる歩いて津和野に行き、事の次第を坂崎出羽守に訴え出た。坂崎は直ちに幕府に報告したので、幕府は延岡藩に対して、勘兵衛を捕縛して差し出すよう命じた。幕命であるので高橋は捕らえて江戸に送った。

幕府はこの事件に係わった富田知高、加藤清正、高橋元種を呼び出して取り調べ、加藤は自領を通過させただけという言い訳がたって無罪であったが、富田知高と高橋元種は犯人隠匿の罪で改易になり、所領は没収され、元種と嫡男左京は奥州棚倉の立花宗茂のところに身柄預かりになったが、翌年棚倉で44歳で死亡した。

高橋元種が預けられた奥州棚倉1万石の立花宗茂は、豊臣秀吉の時代は、筑前柳河の13万石の大名であったが、関が原の戦いで西軍に味方し、伏見・大津両城の攻撃に参加したので、戦後領地を没収され、奥州棚倉のわずか1万石の所へ左遷されている時代であった。この立花宗茂は筑前岩屋城主高橋鎮種の子で、高橋元種は秋月家から入っている香春の高橋家を継いだ人で、血統は違うけれど共に高橋の同族である。

立花宗茂はその後、大阪夏の陣の軍功によって、元和6(1620)年、再び柳河旧領10万9000石に復し飛騨守に任じた。

諸塚村史より


■高橋元種の失脚・・・高橋元種の失脚にまつわる話です。。

■延岡城跡・・・高橋元種によって築かれた本格的な平城です。

■松尾城跡・・・高橋元種が縣をもらった頃の本城です。土持氏の居城でした。

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