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延岡城主高橋元種の失脚

    高橋元種は慶長8年(1603)、松尾城から新たに築城した延岡城に移った。しかし慶長18年(1613)幕府から水間勘兵衛隠匿事件などによって、お家改易の命を受けた。「延陵世鑑」によれば、元種は、日夜酒宴遊興にふけり、また領内の美女を選んで色香に迷っていた。幕府は延岡城築城以来、元種の政道に目を光らせていた。そのおり、幕府のお尋ね者になっていた水間勘兵衛というあぶれものを高千穂の奥に匿っていた。水間勘兵衛(一説には浮田左門といわれる)は、日陰者の身でありながら、高千穂で召使の夫婦を手打ちにした。手打ちにされた農民の子は、その無念を津和野城主坂崎出羽守(水間勘兵衛はこの出羽守預かりの侍を殺害している。)に直訴して、元種の隠匿が露見したのである。幕府はこの勘兵衛を天下の尋ね者として諸藩に達していたので、その機嫌を損ねたことはいうまでも無い。さらに不運なことに、慶長12年(1607)ころ、宮中の女官らは後陽成(ごようぜい)天皇の目を盗んで、女装して後宮に忍び込んだ公家らと情痴の逸楽にふけっていた。中でも天下の美男子と都人に騒がれた猪熊卿は、天皇御寵愛の大納言広橋兼勝の娘と逢引を重ねていた。この不祥事に対して、徳川幕府が朝廷介入の端緒として、糾弾に乗り出した折、都を逃亡した猪熊卿は、慶長14年(1609)八月、延岡嶺内北方町で捕らえられた。猪熊卿は身柄を京都に送られて処刑されたが、これも高橋元種改易の理由になっている。元種改易のころには、延岡城内に様々な怪異が続発した。お城の台所では大鍋が踊りながら走り回り、広間の天井には怪物のごとき足跡が現れ、また月の無い闇夜に書院の杉垣がくっきりと緑の陰を浮かばせたり、城中は不吉な前兆に恐れをなしていた。そのおり、歴代領主の崇敬を集めてきた今山八幡宮で、37日の怪異退散の祈祷が行われた。がその時、別当寺である善竜寺の小姓が錯乱状態になり、「今山の杉のむらだち立ち枯れて元種までも埋木になる」という歌を詠んでご神托を叫んだと言う。が元種は慶長18年(1613)11月15日、延岡城の明け渡しを済ませ、奥州棚倉(福島県棚倉町)へ配流となって落ちていった。

高橋元種

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