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日向新しき村の杉山夫妻

村

新しき村と言えば、白樺派の作家武者小路実篤・房子(実篤の前夫人)・杉山正雄の名前が浮かぶ。実篤が7年、杉山正雄が50余年、房子が60余年住んだ地である。 大正7年に始められた村造りも、同12年には武者小路が離村、そして昭和14年ダム建設のための土地収用を機に埼玉県に移され、日向の地における試みは終焉する。 実篤が去った後、二人は結ばれ、杉山も房子も必死に助け合いながら、二人っきりの村を、特に戦中から戦後にかけて誰からの助けも受けず、ずっと守り続けてきた。ここに杉山と房子の生活史があり、村をどのように愛しどのようにか大事に大事に守り続けてきたのだ。ダムの完成によって、 村の一番肥沃な水田40アール余りが水に沈み、四分の一を失った土地に杉山正雄と房子と共に生涯をともにしたのである。戦時中のことゆえ、保障などの考慮はされず、清貧と言うより、はるかに厳しい暮らしだったに違いない。墓石に刻字してある「屡々空(るくう)」とは「道(真理)に最も近いが、食事にも事欠くほどの貧しいくらし」と言う意味らしい。


房子像

房子は明治二十五年、貴族院議員の竹尾茂と妾の間に生まれた。 実篤と大正元年に結婚。

武者小路房子のエッセイ「古く新しき村」(昭和45年9月20日)の一部:

村人

本当の愛情というものを私が知ったのは、村に入ってからでした。先に書きましたように新しき村はまず家を建て、耕地を開墾し、農耕を習得しといったぐあいに、何の基盤もないところに、一つのユートピアを見出そうとするいうのですから、苦難や幻滅が続きました。病人も出ました。予想以上の沢山の会員の中で内部的ないろいろの問題も起こりました。そんななかで、私自身も病に倒れました。病苦と幻滅感、いっぽうにはそのときまで不自由なく豊かな生活のなかに気ままに育ってきたわたしには、それが無意識のうちにそなわっていた驕慢さ。そうした交錯したわたしの精神や肉体の苦難を時期をあたたかく、一途にささえてくれたのが杉山でした。そんな状態のとき武者小路にも新しい愛が始まっていました。わたしと杉山は一時的に新しき村を離れて鎌倉に住みました。四人がそれぞれに愛情というものの試練のなかにおかれたのでした。「愛はどんな障害も通り抜けて生きなければならない」「運命から与えられるものは甘受してそれを生かせるだけ生かす……」あの時期、これ程の愛への自覚があったかどうかは自らにも問えませんが、いま静かに思えばわたしたち四人は、それぞれの立場でこの言葉のように自らを処置していったことになるのでしょうか。(略)(「村は終わった-最後の人となった房子-」)


杉山正雄・房子の主治医であった吉田隆氏は「村は終わったー最後の人となった房子」「史友会報」などに、杉山正雄・房子について、次のように記している。

八年の空白はあったものの71年もの歳月をこの新しき村で過ごされた。実篤氏が村を去り、杉山氏と結ばれてから67年間その精神を貫き通した(中略) あらゆる不自由の中でも平然として生きて生涯を終えた人として畏敬の念を惜しまない。

もう房子さんの鋭い、目を見張ったいかめしい顔も、茶目っ気たっぷりな笑い顔も二度と見ることは出来ない

親しきものには慈母のごとく、礼儀を知らぬものにはとぼけたり揶揄した態度やいかにも倣慢な態度をしたりして実に自在に生きてきた。だから物めずらしく突然来訪した人などに彼女の真相などわかるすべもなかった

杉山正雄こそ、新しき村の理想を常に心に堅持し、師実篤の教えを忠実に、しかも一人で最後まで、貫き通した雄々しく偉大な男であったと吉田は信じ、多くの人々にもそう話してきた。その杉山があの小さな体に鞭打って毎日村の土地を田を見事にしつらえて、病床に着くまで、稲は見事に実り、梨も栗も茶も立派に育ち、牛も2.3頭飼育してきた。一つの機械にまかせず、短躯(たんく)よく一年間の農事をこなしたものだと思う。そして影の如く房子はいつも杉山のそばにぴったりと付き添っていた。後半よく人々は、房子はあの長い年月の間農業なんて一寸もしたことはないだろうと良く話し書いてきた。しかし房子の手はまるでそこらにいる農婦と同じように、節くれた大きな手をしていることに気づくものは少なかった。あの杉山と二人っきりになったとき、或いは杉山が徴用で動員されていって一人っきりになったとき、どうして土いじりしなくて生きてきただろう。房子の手はきらびやかな派手な生活を送っていたときとは全く変わってしまっていた。杉山も房子も必死に助け合いながら、二人っきりの村を、特に戦中から戦後の長い間を誰からの援けも受けず、ずっとまもりつづけてきた。ここに杉山と房子の生活史があり、村をどのように愛し、どのようにか大事に大事に守りつつ行き続けてきたのだ。

実篤は村を去った。「村」を支援しつつ、自分の道を生き抜いた。安子との愛を全うした。 杉山正雄は「村」にとどまった。師である実篤の教え「愛はどこまでも貫き通さねばならない」のとおり、房子との愛を誠実に奉仕的に全うした。(杉山は房子より11歳年下である) そしてトルストイの思想に傾倒した実篤は「自己を徹底して生かす」という独自の生き方をした。杉山も、独自の生き方・思想を模索し、独自の境地を掴みえたのではなかろうか。 昭和58年4月28日、杉山正雄は逝去した。(80歳) 平成元年10月25日、房子は新しき村のこの家にて逝去した(97歳)


50年の歳月を経過したとき、一人が加わります。さらに七年後の1976(昭和51)年には松田省吾・ヤイ子夫妻が移ってきて、杉山夫妻と四人で新しき村発祥の地を守ってきました。 尚近年、武者小路旧宅が復元され資料館となりました。

民族探訪ふるさと365日(秋山榮雄著)

新しき村・・・杉山夫婦の守った新しき村です。

引用については、昔のメモ書きで忘れてしまい、記載していない方にはお詫びいたします。

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