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大友宗麟の夢

今から四百年ばかり前の天正6年に、豊後のキリシタン大名大友宗麟は、その親戚である日向の都於郡の城主伊藤義祐が島津氏に敗れて豊後に逃げてきたので、伊藤氏を日向に帰すため大軍をもって日向に入り、まず島津氏の同盟者であった延岡の大名土持氏を攻めて、これを滅ぼし、延岡(県)を手中に収めた。そして延岡を自分の隠居所にしようとしのですが、ただの隠居所ではなく、ここにキリスト教の理想的な宗教都市を造ろうという新しい理想に燃えていた。それで国の政治や戦争のことは嫡男の義統ににまかせ、自分は臼杵から数隻の軍船で小艦隊を組み、宗麟の乗った舟には白地の絹に紅色の十字を描いた旗を立て、海路延岡の無鹿に上陸し居を構えた。この時に宗麟に従って来たのは、キリスト教に関係のある人ばかりでした。すなわち宗麟の二男の親家(キリスト教の信者でセバスチャンという霊名を持っていました)らと三人の宣教師たちでした。 大友宗麟は自分の国にキリスト教の宣教師を招いて布教させ、いろいろなキリスト教の保護をしたが、宗麟自身はなかなか信者になりませんでした。しかし日向に来る直前、すなわち天正6年の8月28日に洗礼を受け、フランシスコをいう霊名を貰い、大友フランシスコ宗麟と号したのはこれからです。だからよほどの決心をして日向に来たものと思われます。それで当時の日本におけるキリスト教を統括したカブラル大師父と、最も活動力のある宣教師のルーイ・アルメイダに日本人の宣教師まで連れてきたのです。 日本西教史によると、大友宗麟は無鹿からさらに先に薩摩兵から奪った一つの城に移り、ガブラル大師はこれに随行して、ここで毎日メス祭を執行し、宗麟もこれに列席したとかいてあります。 この大友宗麟が薩摩から奪った城というと薩摩の同盟者の土持氏から奪った延岡市南方の松尾城であろうと思われます。松尾城の北にキリシタン坂と呼ばれるところもあり、この松尾城の近くに教会堂があったと思われますが、宗麟が日向に来て三ヶ月もたたないうちに島津軍との有名な高城、耳川の合戦に大敗を喫したので、宗麟の宗教都市の理想も一抹の夢と消えたのです。

妻耶(つまや)神社

日向ものしり帳(石川恒太郎著)

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