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小倉処平

飫肥藩士小倉処平は弘化3年(1846)長倉喜太郎を父として生まれましたが、18歳の時、小倉家の養子になりました。慶応年間江戸で日向の先輩安井息軒に学び、戊辰の役には藩命を帯びて活躍しました。明治元年(1868)藩の青年に洋学を学ばせることを主張して、後、ポーツマスでの日露講和会議の全権となった小村寿太郎らを長崎、次いで大学南校に進学させ、明治3.4年より7年まで、アメリカやロンドンに留学しました。明治7年には征韓論に敗れて下野した全参議江藤新平ら不平士族が、郷里佐賀県を中心に起こした佐賀の乱で江藤らが飫肥へ逃れてきたのを、処平は保護したので罰せられました。

明治10年、西南戦争が起きたので、処平は日向を鎮めるよう政府の命を受けて飫肥に帰り、ただちに飫肥の子弟を集めて飫肥隊を組織し、薩軍に味方しました。処平は初め鹿児島に行って薩軍が熊本城を囲んで落とせないでいるのを見て、「わづかに一つの城にきゅうきゅうとしていては駄目だ。日向の兵を集めて豊後に打って出るのが上策だ」と進言しましたが入れられませんでした。丁度その時、薩軍は大敗して、熊本城の囲みを解いて肥後の浜町から人吉に退きました。処平はこれを見て、薩軍が敗れるのを見捨てるわけにはいかないと、奇兵隊を率いて豊後に突進し、しばしば官軍を破り飫肥西郷とも呼ばれました。

しかし8月15日の延岡の和田越えの激戦で敵陣に切り込んだとき、ももを撃たれて北川村の幡ヶ谷に退いて療養しましたが、薩軍は武器、弾薬も欠乏して、兵もまたあるいは死に、あるいは傷ついて、数少なくなり、全軍日向長井の一村に集まり、官軍に包囲されました。しかも処平は足に重症を負って再び立つことが出来なかったので、村の青年二人を雇って籠に乗り、長井の三足(みたし)という村にある白道寺山の中腹に登り、籠を担いでくれた青年に銭をやって帰し、ここで切腹して果てました。西郷隆盛らが可愛岳を突破する1日前の事でした。処平の死体は後で見つかりましたが、留学したロンドンから買ってきた英国製の双眼鏡を死体の傍らに置いてあったということです。往年32歳。もったいない日向の人材の最後でした。

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