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大友・島津高城原の戦い

永禄・元亀・天正は、弱肉強食の戦国大名の決戦期で日向国でも同様であった。天正5年(1577)12月、48城を所有していた伊藤氏は、島津氏に大敗した。伊藤義弘一行は、極月(ごくげつ)の雪降る米良山中へ入り、豊後(大分県)へと逃れ、大友宗麟に寄託した。伊藤義弘一行が豊後臼杵に着いたのは、一月半ばであった。なお伊藤氏が豊後へ逃れてより耳川合戦終了までの一年間、門川、塩見、日知屋、山陰の諸城主、その他伊藤氏の残党勢力、それに組する者などの失領回復行動が相次ぎ、戦時の体制状況下にあった。かねてより南下を考えていた豊後の大友宗麟は、伊藤氏の急速な崩壊を機に、「伊藤氏を日向に納めん」という日向進攻の名分を得て、日向南行への兵を起こした。門川城主(米良四郎右衛門)は臼杵に密使を送り、塩見城主(右松四郎左衛門)、山陰城主(米良喜内)もこのことに同調し、豊後勢の海陸よりの進出を切望していた。そして大友軍の日向進攻の先鋒が門川に上陸したのは、天正6年3月であった。大友宗麟は、田原紹忍を大将として3万の軍勢を日向に送ったという。陸路を先導して日向の地に踏み込んだのは、伊藤義弘の息子、伊藤祐兵であった。天正6年4月、大友軍は、島津氏と通じている縣(あがた)(延岡市南方)の松尾城主土持親成を攻め落とした。8月、大友宗麟は自ら3万5千人の軍勢を率いて日向へ出陣した。大友軍は、無鹿(むしか)に本拠を置き、島津氏の拠点である山田有信らの守る新納高城へと迫ろうとした。その頃、日向における伊藤氏の残存勢力は、連絡を取り合い、その勢力の逸回をはかろうとしていた。(それにかかわる7月、9月の石城合戦、10月の三納衆の戦いについては、後ほど記す。 このようにして島津氏と大友氏・旧伊藤氏との戦いは、天正6年3月より始まることとなる。大友軍の先陣は、耳川を渡り、百町原の北の浅付き山に陣を構えた。天正6年10月20日、総軍が到着した。11月上旬、大友軍の多さに、島津義久は自ら佐土原に赴く。島津兵庫頭忠兵(島津義弘)は都於郡城(西都市)に陣を敷き、島津右馬頭以久らは、財部(高鍋町)に陣を敷いた。11月10日より11日にかけて、島津軍は野別府原に野伏をかけ、豊後郡が往来するのを襲う。これに対し大友方の松原陣軍も打って出て戦った。この戦にて、豊後方の今井上総守・和田民部少輔らの五十余人が討ち死にした。11日の夜、大友軍は北郷陣近くの目白坂 (根白坂)へ押し寄せた。12日の卯の刻に合戦になる。両軍入り混じっての乱戦は、小丸川原より名貫川原一帯にかけての激闘となった。「日向記」にはこの折の様子が記されている。「豊後ノ諸勢二万余人惣陣ヲ下シ、薩摩ノ篠陣ヘ押寄タリ、嶋津勢ハ二千余人、互ニ貝鐘ヲ鳴シ・・・」そして。竹大薗を退却した島津軍を豊後軍が追撃した。これを島津右馬頭以久の軍勢が真横から攻めた。豊後勢は、進めば義久の軍勢に討たれ、退けば島津以久の軍勢に討たれ、進退に窮した。更に高城の軍勢が城門を開いて討って出た。当地の地理に不案内の豊後勢は、谷瀬川の淵(竹鳩ヶ淵)に追い込まれ、入水するものが続出し、大敗するにいたった。13日、急ぎ退却する大友軍が高城川(小丸川本流)・名貫川・耳川を渡る際には、殊に混乱の極みに達し、島津軍が追撃するに絶好の状態であった。島津勢は耳川を渡るまで追撃の手を緩めなかった。敗戦の報を受けた大友宗麟は、その夜のうちに。臼杵に向かって撤退したという。ここに耳川の合戦は幕を閉じた。高城を中心として行われた耳川の合戦は。九州の戦国覇者となるべく、南の島津氏と北の大友氏が激突した戦いである。この戦いにおいて、大友軍の戦死者四千余人、島津軍の戦死者三千余人とある。いかに凄惨な戦いであったかが偲ばれる。天正6年11月の耳川合戦後島津氏の日向支配が本格化したのは、天正七年ごろとされている。これより天正15年(1587)の高城合戦に至る9年間、ようやく民や武人らの平穏といえる日々が続いたのである。

高鍋・木城・串間紀行(田浦チサ子著)

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