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延岡藩主三浦氏

三浦氏紋

有馬永純が山陰百姓逃散事件の責任を問われて、越後の国糸魚川に左遷されると、その後後任として三浦壱岐守明敬(あきひろ)が、下野国(しもづけ)壬生(みぶ)から3万5000石で延岡に赴任した。今まで5万3000石の延岡藩領が1万8000石も減ったのは、現在の日向市の大部分と、児湯、諸県、那珂郡にまたがる32ヶ村が幕府に没収されて天領になったからである。天領とは幕府の直轄領で何処の領主にも属せず、幕府が代官を派遣して、直接政治する区域で、今の日向市の富高本町と昔呼ばれていたところに代官所が置かれていた。しかし日向国内の天領地を支配監督したのは、今の大分県日田市に、九州の天領を取り締まる代官所があって、富高のはその支配下であった。

三浦氏は元禄6(1693)年、6月26日延岡に移ってきたが、この時から県(あがた)と呼ばれていた地方を延岡と呼ぶようになった。延岡という地名は三浦氏が付けたのではなく、先代の有馬永純の置き土産である。

有馬氏が元禄4年11月18日に、越後糸魚川に所替えを命じられるが、実際に出発したのは翌元禄5年の6月25日で、その間7ヶ月余りも延岡に居たのであるが、翌5年の正月に公式に「県を改めて延岡と改称する」という布告を出した。それ以降は県の名を廃して延岡となったわけであるが、「延岡」という呼び名は、この時初めて生まれたわけではない。それよりも36年前、今山八幡宮に献納された釣鐘の銘にも延岡という地名が入れてあり、延岡という呼び名は、前から有ったのを永純が公認して正式の名称にしたのである。

三浦氏は行政組織など、有馬氏の組織と行政方法を、そっくりそのまま踏襲して実施しているが、今まで有馬氏が、神社仏閣などに寄進していた何千石に及ぶ石高は、小藩の三浦氏ではととても負担に耐えられないという理由で、今までの社寺の石高を廃止したり、半分以下に削ったりした。高千穂神社、二神神社、鶏足寺等は、寺社領20石であったのを、四分の一の5国とし、高千穂郷を始め各地の郷士(小侍)の手当てと、郷足軽の手当てを一律一石に引き下げた。

三浦氏の延岡在任期間は、僅かに一代21年で、特筆すべき事項は無い。

三浦氏の代はどういうわけか天変地異が多く、大雨大洪水といった異常気象が多く、ことに阿蘇山の大噴火、霧島山の噴火、富士山の大噴火によって宝永山が出来るという異常が続いた。

正徳2(1712)年7月12日、三浦壱岐守明敬は、三河国刈谷(かりや)へ転封となった。

諸塚村史より


■延岡城跡・・・高橋元種によって築かれた本格的な平城です。

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